誰かの何か
病院に行く前日なので長々と書くことはしない。
ただ、私が時折ふと思い出す何気ないことを綴りたくなっただけだ。
今日、父の誕生日にサプライズで軍隊から帰ってきた息子のショート動画を見た。おそらくアメリカなのだろうと思うけれど、ろうそくを吹き消した父の願い事「軍隊に行った息子に帰ってきてほしい」というそのつぶやきを後ろで聞きながら涙ぐむその本人。
この後、家族は喜びの涙で頬を濡らすこととなる。
この家族は、無事に会えた。よかった。ハッピーエンド。
こんな場面を目にするたびに思うのだ。
戦いに身を置く彼らはみんな、誰かの父であり、母であり、夫であり、妻であり、息子であり、娘であり、兄弟であり、姉妹であり、恋人である。
当たり前のことだけれど、“兵士”でひとくくりにされる彼らのプライベートが顧みられることは少ない。転がった死体には家族がいて、涙する人がいて、敵を憎む人がいる。
戦争は良くない、なんて日本では当たり前すぎて誰も疑問を持たない。逆に戦うことが当たり前の国が多いのもまた事実で。
では、これから日本はどうなっていくべきなのだろうか。
そんな時、私は息子のことを想う。100年前の母親もきっとそうだったと思うのだ。私の祖父は軍服を着て遺影に写っている。100年前の妻も、80年前の妻もたまらない思いだっただろう。
そんなことを考えながら、どうにか、世界が平和であることを願うのだった。
どうか、世界が幸せで満ち溢れますように。
読んでいただくだけでも十分嬉しいですが、サポートいただくとおいしいものを食べたりして幸せになれます。私が。