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文章を書くのが苦手な私が、「自分の言葉で伝える大切さ」について語ってみる。

私は文章を書くことが苦手だ。
高校では、現代文の成績に 5段階評価中 2と3をたくさん取った。
なんとか頑張って3。
定期テストでは常に赤点三昧だった。

そんな私が受験期に小論文の勉強をした。
一文目に書いた文章と二文目に書いた文章にまとまりがなく、文章を書くには人一倍時間がかかった。
要約ができなくて、話の展開がすぐ変わる。
人前に出せるような文章なんて書けなかった。

周りの友人は、課題の回数を重ねて行くうちにどんどん伸びていった。
文章力、表現力、論理性、全てが上達して、無事志望校に受かっていった。

完全なる落ちこぼれだ。

先生に添削をお願いしたら、「杜撰すぎる」とあっさり却下されたほど。
その時の先生の顔が引きつっていたから、本当にかなりヤバかったらしい。笑

でも不思議なことに文章を書くことは、嫌いじゃない。

頭の中で考えてることをアウトプットするのが好きだ。
矢印とかイコールでつなぐような感覚でありとあらゆるイメージを、浮かび上がったままに書き出していく。
だから文が整理されず、先生の言う「杜撰」と言う状態になってしまうのは理解できなくもないが、伝えたいことや言いたい趣旨を書き出すことにワクワクした。

そんな私が自分の言葉で文章を書くようになったのは、今年2月。
ハフポスト日本版 (当時、ハフィントンポスト日本版) に寄稿した一つの記事が始まりだった。

今まで文章を書くことを躊躇してきたのに、ここでブログが書きたくて仕方なかった。

自分の言葉で伝えることは、その人にしかできない表現で、他者を共感させることができると知ったからだった。

以前、私はこんな経験をした。

朝日、読売、東京、神奈川、毎日…新聞、フリーペーパーや雑誌など、以前自身の活動がメディアに取り上げられた。
どの記事もプロの記者が丁寧に取材してくれた、私にとって思い入れのあるものばかり。
過去となった今でも、きちんとファイリングしているほど。

そんな記事たちに対して、SNSを通じて読者から、意図する発言と違うように捉えられた意見が寄せられた。
自分の伝えたかった想いがその読者に届かなかったことが、もどかしかった。

確かにどんな記事においても、書き手、読み手の捉え方次第で内容の伝わり具合は変わる。

マスメディアの読者は大勢いるし、個人が発信するより遥かに大きな発信力があるからこそ、よりいろんな人に読まれる。
だから正確な事実を伝えるために、その内容は客観的に書く必要がある。

にもかかわらず、「伝える」先にある「共感」にたどり着けなかった。

他者に物事を伝えることは、これを機に「難しい」と感じた。

だからこそ、自分の言葉で伝えることって本当に大事なんだと。

最近では、ハフポストに寄稿した、自分の言葉で表現した記事を読んで、新たなに文章を書く仕事のオファーをもらえるようになった。
自分自身の活動に対する想いや志について賛同してくださったからだそう。

嬉しかった。

ただやっぱり文章を書くことは得意じゃないから、悩んだり葛藤したりする。

つくづく表現の壁にブチ当たって、
読む価値がある文章なのか、
日本語がおかしくないか、
ちゃんと趣旨は伝わっているか、
心配になることがある。

でも今のところ、もらった仕事は全て引き受けている。
共感してくれる人がいる限り、私の想いは伝わっていることになるから。

最近気づいた。
文章力がなくて拙い文でも、得意、不得意に関わらず書く側の気持ちは伝えられる。
だけど文章を読んだ全ての人に、自分が思い描いた全てを伝えることはできない。
だから少しでもいいから、共感してくれる人に届くよう声を上げていきたい。

苦手でも、好きなことって、きっと誰にもあるし、理解者が増えればもっと頑張れる。

嬉しい気持ちはもっといろんな人とシェアしたい。

だから、私は今日も自分の言葉で、自分の視点でこれからも伝えていく。

これが私なりの理由である。

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