愛とエクリチュール

 北の国で惨殺事件を起こし逃亡、警察に追われ、恋人の少女と一緒に車ごと爆死。という夢を見た。色彩はゴダールの映画のようだった。
 現実の俺は、午後のアパートで独りきりで目覚める。狭いベッドの上で額の汗を拭う。倦怠感と闘いながら起きあがり、よろめきながら裸足で歩き、ポカリスエットで薬を飲む。
 同居人がテーブルの上に残したメモ。冷蔵庫にヨーグルトが入っています。グレープフルーツも。薬をきちんと飲むこと。今日は校了なので帰りません。帰りません。その事実が、たった九畳の部屋を乾燥した砂漠のようにする。誰とも言葉を交わさない一日の始まり。PCの電源を入れると青い光が液晶モニタからあふれ出す。

 自分は天才ではない、ということを俺自身は昔から知っていたし、ひとときの栄光の最中でも失墜が始まったあとも、そして現在も、その確信は揺らぐことはない。周囲がそれを悟るまでには、若干の時間を要した。だが今では皆、俺が天才ではなかったと認めるだろう。

 十七歳で文壇の権威ある賞をとり、それから現在に至るまで一冊の本しか出版していない、俺は、今では無名の元作家だ。自嘲する。それは、実体のない幽霊のようなものだ。俺は作家だ、と、思いこみたいもう一人の俺を、繰り返し胸の中で殺しながら、今日まで生きている。不快な自尊心。いらない矜持。社会不適合者であることの正当化にすぎない。早く死ね、作家であった俺。夜に焼かれて死に、朝に灰より甦る。日々を呪い、新しい言葉を紡げない現実の中で、目を覚ます。

 ラディゲは処女作を残して二十歳で死んだ。コクトーは二十歳の年に初詩集を出版した。ランボオは十九で「地獄の季節」を書いた。
 俺は何も為さずに、二十歳を過ぎてもまだ生きている。

 同居人は仕事に行っていて、帰ってこない。ということの方が日常的で、彼と最後に喋ったのはいつだったか覚えていない。本当に彼が存在しているのか、誰にも証明できない。夢の中で抱き合った幻想の恋人の方が、俺にはリアルだった。ガソリンの中でふたり燃え上がった。デッドエンド。この、すべてが終わったあとの現実よりも、それは美しい。

 同居人は編集者だ。編集者になった。彼の狂わない人生設計のもとに。彼と俺の生活の為に。俺の歯車は、どこかで狂った。
記憶は断続的で、もう、それがいつかは覚えていない。
 十数年前、まだお互いに学生だったころに出逢った。彼により俺は小説を書くことを覚え、彼の讃辞に自信と傲慢を植え付けられた。彼は最初の愛読者だった。
 君は、小説を書く以外のことは何もしなくて良い。大学にも通わなくて良い、アルバイトもしなくて良い、就職もしなくていい。
 純粋な愛。スポイル。俺はそうして駄目になった。彼がいなければ俺は死ぬ。首に鎖をつけられて生きている。すべて終わったあとの、この世界で。
 死ぬよりもこの人生はマシだろうか。俺は何にしがみついているのだろうか。甘い追憶。栄光の残照。未練がたらたら。感受性は死に絶えて、乾いた荒野だ。

 いまや、俺は完全な諦観のうちにあった。人生がゆるやかに駄目になっていくのを感じていた。現実に一向に執筆はうまくいかず、連動するように日常も停滞し、俺は泣きながら眠り、生きながらえているものの実態はいわば「倦怠のうちに死を夢む」境地……コピーライト中原中也オールライトリザーブド。もう死んでしまいたい、と思い、次の瞬間には絶対に絶対にくたばりたくない、と思う。

 書きたい小説の断片だけが、目を閉じていると頭のなかに溢れて、だが、俺には言葉を紡ぐ力が無くて、それがつらい。「君が大切にしてるそんな妄想、全然きれいでも素敵でもねぇんだ」と、誰かに酷く罵られ、踏みにじられたい、そんな夏。

(誰かじゃない。おまえに。俺はおまえに引導を渡して欲しいんだ)

 不意に、現実感のない季節の思い出が、フラッシュバックを引き起こす。暗い地下の部屋と異様な光の束とアルコール、あとは、混濁していて時系列も真偽もさだかではない会話の切れ端。が、無数に俺を取り巻いて、追いかけてくる。墜ちていく。

 真っ赤に塗られた悪趣味な壁の前で、彼がウォカトニックを呷る。異様なディストーションのかかったシャンソンが大音量で流れている。愛の賛歌。貴方の燃える手でー私を抱きしめて。フランス語の独特の響き。彼と何気なく手を絡め合う、俺の指先は震えている。新宿のバーの魔的な夜。時が凝固したように、文学の亡霊が彷徨っている。

 漠然と、作家になりたいと物心ついたころには決意し、青春時代を棒に振りつつ日夜そのためだけに邁進してきたが、いつしか、そんなことを忘れたように酒を飲みながら唄ったり意味もなく街を徘徊したり抱き合ったりしている方が楽だと知ってしまって、もう、そればっかりやっていた。あるときから、俺は何も書けなくなっていた。辛うじて立っていたのは夢の抜け殻、それとも死骸、スタンドアロン、我はいまや盲動する一個の肉塊なり。からっぽだ。彼が笑うと、反射のように俺も笑った。世界はシンプルだった。彼が世界だった。我が星。我が愛。我が罪。俺たちはお互いを理解しようとはしなかった。彼の素晴らしいところは、正しく距離感を掴む才能だ。

 記憶は時系列を失い、印象として焼き付いている。その頃の、十代の俺が感じていた感情は、もう今の感情とはまるっきり別のところに剥離して、ほろほろと感傷の海を漂っている。指先は震えている。その日から今日まで、俺の血は震え続けている。

 俺は小説を投稿することに決めた。茶封筒を買ってきて、丁寧にサインペンで御中まで書いて、郵便局の窓口で書留にして送られていった二百数十枚の原稿が、いつか、自分と現実とを繋ぐなにものかになればいいと思った。他には何も、考えていなかった。愚かな子供であり、なにも恐れていなかった。
 小説は、雑誌に載り出版された。その時、俺は世界と接続された。知らない人間が、自分の創作物を読む、という実体験。印刷製本技術によって複製された自意識。巨大な羞恥と、露悪の快感。書くことは、うつくしくなどない。執念であり凝固した血のように赤い。フィクション、俺が独りで産んだ子供。おそろしい快楽。自意識の拡大。俺と世界の関係性は、その日から書き換えられた。もう、もどれない。
 
 ……………………
 世界との断絶を、俺は取り戻さなければいけない。
 いちど、これが世界と繋がり人生を取り戻す唯一の手段、と知ってしまったら(それがたとえ錯覚でも)もう、それまでの俺には戻れない。世界を変革する力など、なくても。

 俺は今日も待っている。真っ白いテキストエディタの画面を眺めながら、彼の居ない部屋で、じっと待っている。
 書けたら。俺の一番の読者であった彼が望む、新しい小説が書けたら。
 世界と愛を、俺はそのとき取り戻す。きっと。

 きっと。

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小川絢

創作小説・エッセイなどを書いています。短歌をつくることもあります。

習作

10~20代前半に書いた文章と、習作と思った物を入れておくマガジンです
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