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缶コーヒーがすべり落ちる隙間

冷蔵庫に、誰にも飲まれることのない缶コーヒーが眠っている。

私は缶コーヒーを飲むのが好きだ。
図書館に行ったときは、帰りがけに休憩スペースの自販機で缶コーヒーを飲むことにしている。

そしてふと思った。
母は私の年の頃に、こんなふうに自販機のコーヒーを1人で飲むような、心から鎖が解けるような時間を持っていただろうか。
多分なかったと思うが、あってたらいいなと思う。
なるほど、では私にとって缶コーヒーは、ほんのひとときの時間心を鎖から解放してくれる魔法の薬のようなものなのだな、と思う。

好きというのは、特別ということだ。
小さいころ、親から自販機で飲み物を買ってもらえるということはとても特別なことだった。
ドライブの途中で、「ジュースでも買おうか」と父が言うのは喜びだった。
多分父も同じようにそれを特別なことだと楽しみに思っていたんだと思う。
ケースの中に並んでいるどれでも、一番好きなものを選んでもいいという行為はすばらしい贅沢のように感じた。

高校のときも校内に設置されているパックの自販機を頻繁に買っていたし、
大学のときL→R理論は自販機の仕組みで覚えた。

ただ不思議なことに、私にとって「缶コーヒー」というのは自販機にお金を入れて、ボタンを押してがたんと落ちてきたそれを指すのであって、
それをひとたび別な場所、たとえば冷蔵庫に移動させてしまったら、たちまち「缶コーヒー」ではなくなってしまうのである。
缶の中にコーヒー・・・みたいな飲み物・・・?が入った・・・?みたいなやつ・・・?になるのである。

缶コーヒーの魔法の効果は解けて、私はそれに興味を持つことはなくなる。

なので、旦那から、

「なんか会のときに出された缶コーヒー、冷蔵庫に入れてあるから飲んでいいよ」

と言われても、冷蔵庫の中に缶コーヒーはないのである。

だから、我が家の冷蔵庫には、誰にも飲まれない、私の目に見えない缶コーヒーが眠っている。

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