見出し画像

221231

大晦日の今日は初めて筑前煮を作った、高かったから蓮根は抜きで。もう少しで家を出るから、それまでの間、今年を振り返る。

去年も似たようなことを考えていた気がするが、今年は特に時間や抱擁や祈りについて、考えざるを得ない感じがあった。

近眼にならないよう遠くのことを想像したり、キーウの世界時計を入れたり、想像しきれるわけがないと諦めたり、時間のちからを信じて待ったり。特に「待つ」という行為をこれまで実践した年はなかった。

最近読んだ宮台真司の本に『待つという行為には人を妄想的にさせる要素(孤独感・無力感・不条理感)が揃っている』とあったが、今年はどうにも離人的な感覚が強かった。ただ「待つ」を通して、気がついた点としては、関心を持ち続けられることにはきっと自信を持って良いだろうということ。そして待つ上で、時間感覚を引き伸ばしたり、その時間をクオーツ化するには祈りが必要だということ。蹴伸びみたいな、穏やかな祈り。

祈りについては、宇多田ヒカルがBADモード発売に際して、『ネガティブやポジティブと呼ばれるものも感情の重さでいったら同じ』『寂しさや辛さは乗り越えなければならない山ではなく、それも一つの心象風景だ』と発言していたことが残っている。感情は良し悪しのない自然現象で、様々なモードがその都度ただ在る。成り行きを眺めて見渡す。どうなるか分からないし根拠はないが、信じる(祈る)。

今は過去とも未来とも繋がっているジャンクションで、未来の方が不透明である種不安なのだけれど、うねる方向性が未知でもあるので、その波乗りに集中した方がいいと思いながら、待つ間、映写機的に夢を見ていた。

春に初めて行った心療内科はずっと行きたかったフジロックみたいだったし、安定なんてものはなくて全て流動体だし、花が咲いてるだけマシ、常にラビンユーが募るし、現実逃避が今を甘美にするし、病むのはイージー、戦争は本当に最悪で、国葬はキモ過ぎたし、UAが『愛に突き動かされたいんでしょ』と言ったこと、時間が経つとひとは死ぬし、生殺しならさっさと殺してくれと思うスラッシュメタルな日も、気圧の変動で気絶する日もたくさんあった。

生きてきたぶん、蓄積した痕跡たちにぶん殴られることがあっても、今年は涙の背景が少しずつ変わった気がするし、享受したものをなかったことにするのは短絡的だし暴力的なので心で飼うし守ろうと思えるようになった。

夏には求人をした。「あなたと働きたい」と言われることは直接的でクラクラするが、「あなたがやっている場所が好きだ(それをもっとよくしたい)」と言われること/思われることは非常に嬉しかった。場所を介して、自分がいるという感覚がずっとある。場所があるから、自分もいる。

9月に台湾に行ったときは、個人的なオピニオンが仕事と直結しているひと(自分の行動が世の中をプラスにし得ると信じているひと)と、そうでないひとが居て、前者でお金に余裕があるひとは少ないという話をした。

仕事をしていて感じることは、誰かの大切なタイミングに立ち会えることは嬉しい、ということだ。「自分が居なければ破綻するな(誰もそれに気がついていないな、故に)消えたいな」と思うときもままあるが、「自分が居ることで恐らくこれが起きたように思える」状況や、他者から「あなたが居た方がいい」とされる瞬間が有り難くて、大切だなと思う。そのときの温度を忘れない。

自分は気が利くのではなくて、感謝されることを狙って行動していることが殆どなので、本当に心から優しいきれいなひとと対峙すると感動で痺れる。どうして自分はその純度が持てなかったのだろうと落ち込む時期もあったが、色んな感度や意向を汲み取って前に進める(止めない)のが自分の役割だと思ってからは、自分の澱みに注目しなくなった。

振り返って覚えている音は、Awichと宇多田ヒカルとアナログフィッシュのアルバムと、電話先で鳴いていた鈴虫。

友達は、浸透圧がほぼないし元気になるから本当にすごい。何かの本に『ささやかな心の共鳴こそが肯定的な気分を担保してくれる』と書いてあって、それは自分にとって友達たちのことだし、私が抱擁やハグといった言葉がなぜ好きかというと、双方的で、接木(延命)、心の決壊を防ぐ、といったニュアンスを感じるからだと思う。

ヘッダーはよく行く銭湯の道すがらに見つけた謎の花。来年はコラージュをまた復活させたいです。これを読んでくれた皆さん、今年もありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?