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二・二六事件の頃(昭和11年)

二・二六事件の頃(昭和11年)

昭和十一年、私が小学校三年生の二月二十六日の事である。
父がいつもより真剣な顔で、学校から帰ってきた私に、「F子、今日は子どもは外で遊ばないで、家の中で静かに遊びなさい」と言うのである。
「どうして?」と言うと、「若い兵隊さんが暴れているから」と言うのだ。
「どこで暴れているの?」「どうして暴れているの?」
次々に聞き返す私に、父は困ったように「東京で暴れているのだけれど、宇都宮の兵隊さんも、これから暴れるかもしれないから」と言うのである。
私は何のことかさっぱりわからなかったが、母も「お父さんの言う通りにしなさい」と言うので、仕方なく、家の中でお手玉をしたり、廊下で毬つきをしたりして、三日間を過ごした。学校は休まなかったように思う。

師範学校に進学し、詳しく歴史を勉強してから、やっと二・二六事件を知ったのだ。
皇道派の青年将校らが千四百の兵士を動かして挙兵、斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監らを殺害、挙兵部隊の一部は東京朝日新聞社を襲い、活字ケースを破壊して去って行った。
クーデターだったのである。首相官邸はもちろん、永田町一帯を占拠し、侍従長鈴木貫太郎にも重傷を負わせたので、東京市には戒厳令が布告され、挙兵部隊は反乱軍として、政府司令部が討伐行動に出て鎮圧した。クーデターは失敗に終わったのだ。
時の首相は岡田啓介だったが、総辞職して、広田弘毅内閣が成立した・・・という史実である。

それから八十年も経って、現在よくお花見に行く小金井公園に、東京建物園というエリアがある。そこに高橋是清の館を再現した建物があって、二・二六事件の事が詳しく記録された展示物がある(ここで調べると便利だ)。
この館には二階に昇る階段と、用件を済ませて降りる階段が、東と西に分けられているのである。意見の異なる者同士がぶつかるのを防ぐためだそうだ。
一触即発の時代であった。
当時の日本は資源不足で、エネルギーも不足し、工鉱業の発達が遅れていた。三菱重工が木炭自動車の製造を始めていた。
第十九回衆議院選挙では、社会大衆党十八人、無産党四人が当選し、暗い時代への人々の抵抗を象徴しているように思われる。
内務省はメーデー禁止の通達を出し、多勢が集合することを恐れた。人民戦線運動が弾圧され、全国各地で千人以上が検挙された。(以上、講談社の歴史年表による)

何となく戦争の匂いが漂ってきている時代だった。

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