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勤労動員(農家の手伝い)昭和18年

昭和十八年、私は十六歳、師範学校予科二年生だった。
日本の戦局は厳しくなり、二月二日、ガタルカナル島から撤退開始、二月七日までに一万一千人が撤退した。
四月十八日には、連合艦隊司令長官・山本五十六の搭乗機が南太平洋で襲撃され、戦死した。
続いて五月二十九日には、アッツ島で日本軍玉砕となった。

だんだん心細くなるばかりだ。国内には、若い男の人は殆ど居なくなり、政府は六月に学徒動員体制を決定、勤労動員を強化した。
女学生も大学生も、勉強どころではない。
農家では、田植えや稲刈りの農繁期に、人手不足で困っていた。
女子師範生は、勤労動員で農家の手伝いに行った。
私達は栃木県河内郡白沢村の農家に配属された。一週間ほど泊り込みで、馴れない仕事に精を出していたが、本当に役に立ったのだろうか。
農家の奥さん達は、御飯を炊いたり、実沢山の味噌汁を作ったりして歓迎してくれた。
食事の時、おじさんが出て来て「みんな、どで腹食え、どで腹食え」と言うのである。「どで腹」というのは、お腹いっぱいという意味なのだ。私達都会の子は、配給しかなく、いつもお腹を空かしていることをご存知なのだ。
私達は喜んで、この際たっぷりご馳走になれると思った。
ところが、少食に慣れてしまっている私のお腹は、二膳も食べると満腹になってしまうのだ。
体格のいい友達などが、「お代わり四回したわ」などと言っているのを聞くと、羨ましい限りだった。

稲刈りの時など、一列を一気に刈ることができず、途中で腰を伸ばし、一休みしながら、能率の上がらない仕事ぶりの自分が情けなくて、農家育ちの友達が沢山食べられて、男なみに働ける体力のあることを羨ましく思うのだった。

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