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宇都宮大空襲(昭和20年)

昭和二十年、私は十八歳になんなんとしていた。
勉強もろくにしなかったのであるが、本科一年に進級した。
燈火管制で、光が外に洩れないよう、黒布で電灯を覆っていたので、暗くて本も読めなかった。
前年に引き続いて、中島飛行場に学徒動員で通っていた。
戦局は益々悪化し、敗北的なデマがひそひそと人々の間で囁かれるようになった。
夜は、B二十九が飛来したらいつでも避難できるよう、着の身着のままで寝ていた。枕元には長靴や防空頭巾、非常袋を用意していた。

二月十五日の夜は、友達が「チョコレート食べた夢をみたわ」などと言うので、子供の頃に食べたキャラメルやチョコレートの話をしながら、今夜は「バナナを食べる夢をみたいなあ」などと冗談を言いながら床についた。
次の日、二月十六日の明け方のことである。
「F子さん、早く起きて。早く早く」と言う友の声に目を覚ますと、窓の外が真赤に燃えていた。
「あっ、空襲だ。焼夷弾だ」
飛び起きて長靴をはき、防空頭巾をかぶり、非常袋を肩にかけて駆け出し、八幡山の防空壕へ突っ走った。

壕の中には、私達師範学校の生徒だけではなく、近隣の人達も大勢逃げ込んで来たので、奥へ奥へと詰め込まれ、暫くすると息苦しくなってきた。
遠くの方で時々「ドーン」という音が聞こえてくる。
「まだB二十九は飛び去らないのかしら」
奥の方で見えないだけに、余計不安は増してくるのである。
「私の家は街の中心部だから、燃えてしまったかもしれない。父や母や姉はどこへ逃げただろう」と遂口走ってしまった。
お友達のM子ちゃんが、「F子さん家が焼けてしまったら、私の家に一緒に行こうね。私の家は田舎だから大丈夫よ」とやさしい言葉をかけてくれた。こんな時は、皆やさしくなれるのである。
「ありがとう」と、私は涙が出そうになって、M子ちゃんの手を握った。
出口に近い男の人が「ああ、もうB二十九は通り過ぎたよ」と言ったので、皆恐る恐る壕から出ていった。
やっと外の空気を吸うことができた。もっと長時間居たら、窒息したかもしれないと思った。
街の方は、まだどんどん燃えている。夢でもみているようで、頭の中に言葉が浮かばなかった。

友人に促され、焼けなかった寮に帰って来た。寮長先生が廻って来て、安否を確かめ、皆無事であったことを喜んでくれた。
夜が明けて明るくなってきたが、何をしてよいのか、ただ呆然としているだけだった。どのくらい時間が経過したかわからないが、洗面もせず、食堂に行って、いつもの豆入り塩がゆを食べた。
暫くして、男の先生達がやって来て、「さあ皆、中島飛行場へ行くぞ。工場は焼けなかったから、元気を出して、勤労動員だ。寮庭に並べ」と言うのである。
私達は、言われるままに寮庭に整列し、班長の号令に従って歩き出した。T先生が「軍歌を歌え」と言うので、「勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからはー」と大声で歌いながら行進した。

街は、駅の方まで壊滅し、建物が燃え尽くされていた。東京街道のすぐ近くまで焼け野原だった。まだブスッ、ブスッと煙を吐いている建物もあって、「これが昨日までの宇都宮か」と、戦争映画を見ているようであった。悲しいとか悔しいとかの感情も湧かなかった。
そんな市街地を、軍歌を歌いながら行進している自分が、映画の中のヒロインででもあるかのように思えた。

工場は無事であったから、今まで通り、ネジの穴あけの仕事をこなし、昼御飯をいただいて、夕方又軍歌を高らかに歌い、自分を励ましながら帰寮した。
そこへ、ひょっこり父がやって来て、「F子、無事だったんだね。母さんもお姉ちゃんも無事だったよ。家も焼けなかったから、心配いらないよ」と知らせに来てくれた。
「あー、良かった」
その時やっと正気に戻ったような気がした。父も安心したように、手を振りながら帰って行った。

後で、新聞で知ったことだが、米機動部隊の艦載機千二百機が、関東地方を空襲したのだ。
もう日本は、間もなく滅亡するのではないか、と暗い気持ちになった。

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