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江戸の女の子たちから学ぶ

卒論は大学生活で最初で最後に書いた(まともっぽい)論文だった。

卒論提出締切日。
昼過ぎに大学へ行き、締め切り時間には余裕を持って提出した。
友人と落ち合った後、締め切り直前で猛ダッシュで図書館と教室を行き来する学生を横目で見ながら、ロクに飲めない缶チューハイで乾杯していた。

中には締め切り時間ぴったりで閉められた扉の前に、あと一歩で間に合わず紛糾していた学生もいたので、本当に性格の悪いことをしていた。

私の大学生活は、まさに社会に揉まれる前のモラトリアム期間だった。

始発が動く前の下北沢駅前で、少し前までカラオケで歌っていた曲をiPod touchからYouTubeで流し、オール明けのハイテンションで見よう見まねで歌い踊っていた(曲はハイスクールミュージカルの「We're All in This Together」だった)。

4畳半の友人宅で5~6人で雑魚寝して、授業が休講になれば下北の街を昼間っからブラブラ歩き、安い雑貨や服を買い、カフェラテ一杯で何時間も何時間もおしゃべりしていた。


そんな大学生活の締めくくりに書いた論文を、こうやってnoteに残そうと思ったきっかけは、塩谷 舞さん(@ciotan)のツイートをみて、このアイデア面白そうだなあ、と思い引用RTしたら50以上のいいね!がついた。

フォロワー300人程度のゆるいアカウントで、こんなにいいねがつくことはまずないので、調子に乗り、ダメ元でデータを探してみた。
そしたらなんと、残っていた。まじか。


数年振りに読み返すと、まあ、読み物としては形になっていたので、公開することにした。正直、論文としては全く大したことない。と思う。
なにしろ、まともに人様の論文を読んだことがないので、比較のしようもないのだけど。

概要

この卒論は、江戸時代の女の子たちの様子を、なけなしの知識を総動員して調べて考えて書いたものだ。


江戸時代の女の子たちは、現代の私たちよりも10年ほど早い年齢がちょうど「青春時代」に相当する。15才前後で結婚することが多い時代(!)なので、短い娘時代をそれはそれは精一杯楽しんでいる様子を様々な文献の中から、読み解いている。娘自身の目線、親の目線、世間の目線、そして開国直前の外国人の目線からも。

調べていて思ったことは「あんまり現代と変わらないなあ」ということ。


当然、現代と背景は全く違う。当時は「お家」の力が強く「良い嫁」が求められた。幼いうちに病気でなくなってしまう子どもも多かった。そもそも、男女比が7:3なので、それはもう、大事に大事にされていた。

ただ「青春時代を過ごしている当事者」としては、そんなこと、あんまり関係ない。

勉強や習い事はめんどくさい。
親はガミガミと小煩い。
流行りの色の着物を着たい。
かわいい簪がほしい。
話題の芝居を見に行きたい。
大人をマネて、プカリと煙草をふかしてみたい。

時には周りの大人から叱られたりしながらも、生意気で口が達者な江戸の女の子たちは「おちゃっぴい」と呼ばれ愛されていた。

そんな様子を書いた、約2万字の卒論。
大学時代のことを思い出しながら書いていたら、エモすぎて、もうすでに長くなってしまった。
が、更にここからが長いので、気になる方だけ読んでもらえたら嬉しい。

 目次 
一、 「分」をわきまえる「いい女」
二、 江戸の女性
三、 子供と病
四、 女の子の教育
五、 「おちゃっぴい」について
六、 江戸の女の子の結婚事情
まとめ
参考文献

一、 「分」をわきまえる、「いい女」

私は、江戸女のファンだ。
逞しく、しなやかで、力では勝てなくても心では男性になぞ絶対に負けないその生き様が、どうしようもかっこよくみえる。

いつも前を向き、明るく軽やかに生き抜く、しゃんとした姿は、浮世絵などのビジュアルから、古川柳や黄表紙・洒落本などに登場する様々な女性たちから彷彿するイメージである。

現代の「いい女」の定義とは、どういったものだろうか。
スマートフォンをはじめとしたデジタル機器が盛隆であることも手伝い、デジタル書籍が話題を呼んでいるが、ファッションの流行を提示するものとしては、やはり女性ファッション誌は定番である。そのファッション誌でさえも「赤文字系雑誌(CanCam , ViVi , JJなど。男性受けするコンサバファッションを扱う)」と、その対称的な存在として「青文字系雑誌(Sweet , Spring , Zipper など。原宿を情報発信限とした脱・コンサバファッションを扱う)」、他にも「森ガール」「ゴスロリ」「パンク」を扱う専門誌も出版されている。「服装は人を表す」というが、まさにそうである。服装ひとつをとっても、その服装を選ぶときの基準から個々の精神性がわかるのである。
女性の生き方も働き方も多様化し、結婚スタイルも人それぞれであるから、一概には「いい女」と定義付けすることは難しいであろう。

江戸時代、人々が最新の流行を知るメディアとしてもっとも身近だったものは極彩色の浮世絵である。
当時浮世絵は一朱から三分ほどで販売されており、誰にでも気軽に購入できるものであった。地方から江戸へ出てきたものは江戸土産として、江戸に住む者は最新の情報を得るために購入していた。浮世絵はその字の通り、「浮世」(世の中)を描いたものであり、「当世風」「遊楽的」「享楽的」という意味で「浮世」の言葉が使われていた。 

当初は遊女や役者、つまり当時の人々の憧れである「スター」をモチーフとして描かれ、のちに現在の読者モデルのような「どこにでも居そうな娘だが、きらりと光る個性や美しさ」を持つ看板娘も浮世絵に登場するようになる。
彼女たちは、遊女や役者のように「美しくて当然」である人々と一線を隔てた「手の届きそうな美人」であり、これまで一流のスターを描いてきた「美人画絵師お墨付きの美人」なのである。

この「美人画絵師お墨付き美人」第一号がかの有名な「笠森お仙」である。

(出典: Online Collection of Brooklyn Museum ) 

彼女は父親の手伝いで谷中にある笠森稲荷の水茶屋「鍵屋」で働いていたところを当代一の美人画絵師、鈴木春信に見初められて浮世絵に描かれたところ大変な人気となった。彼女のファッションセンスは江戸の娘たちの注目の的となり、「お仙」・浅草寺裏の楊枝店本柳屋の娘「お藤」・浅草の茶屋蔦屋の「お芳」、この三人は「明和の三美人」として人気を博した。

その後、喜多川歌麿が両国の煎餅屋高島屋の長女「お久」・浅草寺随身門脇の水茶屋難波屋の娘「お北」・浄瑠璃富本節の名取の吉原芸者「富本豊雛」を「寛政の三美人」として描き、こちらも大変な人気となった。

(出典:Museum of Fine Arts, Boston

しかし実際に浮世絵を見てみるとわかるように、どちらの「三美人」もよくよく似て描かれている。かろうじて背景や服装、所持品から判別できる程度であり、とくに際立った個性は感じ取れない。

ではなぜ、彼女たちは一世を風靡するほどもてはやされたのだろうか。それは先述したように「美人画絵師のお墨付き」であるからである。

「誰を」描いたのかも、もちろん重要だが(その証拠にお仙の働いていた茶屋はお仙見たさに訪れた客で大繁盛した)、当時の人々にとって「誰が」描いたのか、がもっとも重要視される事柄であった。
鈴木春信や喜多川歌麿のような人気絵師が描く浮世絵が人気であることと、描かれたファッションや化粧が人気だということはイコールなのである。

当然のことではあるが、当時は現代と違い各々のライフスタイルに合わせて装いを選ぶことは不可能であった。服装や化粧、髪型などは本人の身分や年齢、職業、未既婚、子の有無まで分かってしまうほど、当時の装いは制服のように定められたものであった。
加えて、身分不相応な華美な装いは幕府から取り締まられるということもあり、制約のある中、その時々の流行を取り入れていく工夫が必要となってくる。

  お家「お壁さん、今し方表を通ッたおかみさんをご覧か
  おかべ「いゝへ
  おいへ「とんだはなやかなお形さ。路考茶縮緬の一粒鹿子の黒裏で、下へ同じ一粒鹿子の黒の引返しを二ツ着て、緋縮緬の襦袢に白繻子の半襟で、鼠の厚板の帯のこりこりする九寸幅さ。背恰好はすらりとして、故人米三を中年増に作ったという風だつたが、女でさへふるひ付くものをネ、ましてや男は尤もな事さのう。今もお聞ナ、髪結床の前を通つたらネ、若者が大勢で其おかみさんの路考茶お見てネ、あれ見な、とか、見ろとか云て、今の女は皆青い着物だナ。惜い女に馬糞の衣をかけたぜ。あつたら事をした、なんぞといふはな。男といふものはにくいことをいふもんだねへ
  おかべ「さうさのう。それだから髪結床の前を通るのは恥ずかしいよ。先刻通つた人も立派な事さ。髪が上方風で化粧まですつぱり上方さ。鼠色縮緬だつけが伊予染に黒裏さ。とんだ能上がりだつた。あひ着はずつと茶返しの比翼で緋縮緬の襦袢、やつぱり白えりをかけて黒繻子の帯、どうもいへねへ風俗だつけ。(『浮世風呂』第三編巻之下)

つまり、最新の流行をいかに自分なりに工夫して取り入れているかどうか、それが自分に似合っているかどうかが「お洒落な人」の条件であったと言える。
浮世絵に取り上げられるほどの美人でなくても通りを歩けば、この女性たちのようなお洒落に敏感な女性が「お洒落のヒントを盗もう」と注目される人物に成り得るのである。

江戸時代の言葉で「小股の切れ上がったいい女」「婀娜」「渋皮の向けたいい女」など現代にも残っている言葉があるが、先述の文中に登場する男性の反応が良い例で、流行をただ取り入れるのではなく、自分に似合うように着こなしてこそ、あのように囃し立てられたりするほど目を引く「いい女」になるのである。


今も昔も「いい女」の定義は難しい。
しかし、「人は外見ではない」といえども、身だしなみやセンスはその人の内面が現れるものでもある。流行しているからといってむやみやたらに取り入れたり、自分の「分」をはき違える女性は決して「いい女」とは呼ばれない。

江戸時代は身分にそぐわない華美な服装は取り締まりの対象になっていたこともあり、見えないところに刺繍を施してみたり、裏地を表地と異なる生地で仕立てるなどして、決して自分の身の丈を越えるような背伸びをせずに、可能な範囲でのお洒落を楽しんでいたのである。
このようなお洒落を楽しむ工夫をする心は江戸の人々が自然と持ち合わせていた「分」をわきまえる、という生き方から生じるものである。

現代と江戸時代と、最も大きく異なる点はどう足掻いても変えることの出来ない身分制度の有無ではないだろうか。

私たちが高校までの教科書で習ってきた江戸時代の姿は、封建的で、士農工商の身分制度が敷かれ、男尊女卑の考え方が定着している、というものであった。それも江戸時代の一つの姿であることに変わりはない。

しかし、約二百年間の江戸時代の文化形成の立役者はなんといっても町人である。何百万石の藩主や徳川将軍家でもなく、あくまでも長屋に暮らしていた一般庶民が主役なのである。身分制度が敷かれているだけに、生まれてから死ぬまでの人生コースはそれぞれある程度決まっている。

現代であれば反発も生まれてきそうなものだが、他人を羨まず、持って生まれた「分」をわきまえて生きる、という生き方が江戸に暮らす人々のあいだで自然と身についていた。

そもそも「分」とはどういった意味合いを持つ言葉なのであろうか。

【分】
①わけること。(途中略)④全体を構成する要素。一部。⑤わりあて。わけ前。⑥分け与えられた性質・地位。身の程。力量。⑦仮に定められた人間関係。名目。⑧当然そうあるべきこと。なすべき務め。(『日本国語大辞典』第二版)

とある。つまり、「分をわきまえて生きる」ということは、自己を知り、自分のやるべきこと・できることをし、無理な背伸びをせず、見栄を張ってできもしないことはやらない、ということである。

これは決して「チャレンジをしない」という意味ではない。「分」というものは、その組織や立場、役割によって大きくも小さくもなるものである。自分が置かれているところで一体自分がどういったことを担っているのかをきちんと把握し、それに合わせて自らの分を変化させていく力が必要とされる生き方なのである。

「分」をわきまえた生き方を身に付けていたのは何も男性だけに限らず、もちろん女性も同様である。一朝一夕で身に付くものではないため、子どものときから周りの大人を見て、自然と身に付けていく生き方なのであろう。

二、 江戸の女性

江戸の町は当時世界一の人口を誇る大都市であった。
文政に入る一八一八年頃の総人口は百三十万人を越え、同時代のロンドンが五十万人、ニューヨークが二十万人の人口であったことからも江戸が人口の多い大都市であったことがわかる。
江戸はもとより、参勤交代制が敷かれていたことや、地方出身の出稼ぎが多かったため所帯を持っている人数が少ないこともあり、男女比としてはおよそ七対三であった。吉原をはじめとする遊郭や、私娼、公娼の需要が高かったこともこれに由来すると考えられる。

もともとの男女比が偏っていたことから、江戸で女性は大切にされた。
つまり、女性の立場からすると男性に「媚びる」必要性がないのである。
そうすると自然に女性が景気立ってきて、威勢がよくなる。そう育ってきた女性が子どもを産み、その子が女の子であったりすると、

器量がよければ申すまでもないが、まずい子であっても、何か知らん芸を仕込んで、屋敷奉公にでも出す、といった風がある。それも行き先はいくらでもあるから、小娘のうちから気が強い。そういう調子だから、自然女房に威勢がついて、亭主野郎は頭があがらない。(西沢一鳳『皇都午睡』)

という威勢の良い女性を育てるサイクルが確立されているのである。
「女一人に婿八人」という諺もあった程であったため、男性にとっては嫁をとれただけで贅沢なことであった。そのため、亭主は女房に頭があがらず、こんな句も詠まれている。

 女房の かげ身にそって たわけ者

嫁の影のように寄り添い、誠心誠意尽くしてしまう可憐な亭主を詠んだ句。

馬鹿亭主 うちの戸棚が 開けられず

これは戸棚の開け方も知らない亭主、というわけでない。

戸棚というのは少しだけつまむおやつを女房がそっと隠しておく場所であった。そのおやつ置き場に別のつまみぐい、つまり「浮気相手の男(間男)」を隠してしまう。実際に隠していたかどうかはさだかではないが、「おやつ」を見つけて、せっかく結婚した女房がほかの男を選んで女房を失うくらいであれば、見て見ぬふりをする亭主が少なからず居た、という句である。とんでもない女房だが、今も昔も、つまみぐいは蜜の味、ということなのであろうか。

このように女性優位にあった時代のなか、元気で威勢よく家事を切り盛りする母親や祖母、周囲の女性の後ろ姿をみて育った、おしゃべりで生意気、大人顔負けの口達者な子供が江戸の人々に愛されていた。

彼女たちのことを江戸の人々は「おちゃっぴい」と呼んで時に叱りながらも可愛がっていた。彼女たちが江戸の人々に愛された理由は、なにも女性優位の世の中であるだとか、愛らしい姿だとかということに限定されない。

江戸時代、子どもは、現代のように生まれたら、生まれた人数だけ生きられるとは限らなかったのである。幼くして亡くなってしまう子も大勢いたなかで、すくすくと元気に育った子どもに対する愛情は、実の親だけでなく周囲の大人も含めて深い愛情をもっていたのではないだろうか。

三、 子供と病

一七〇三年に日本で初めて医学的育児書『小児必用養育草』を著した香月牛山は著作のなかで「十の男子を治するとも一の婦人を治しがたく、十の婦人を治するとも一の小児を治しがたし」と述べていることからも、いかに子供の成育が困難であったかを感じることができる。
それだけに江戸の人々にとって我が子の病は身近なものであり、心して迎える必要性があった。


特に伝染病である疱瘡(天然痘とも呼ばれた)は奈良時代以降、江戸末期までに全五十八回の大流行に襲われている。地方においては六、七年の間隔で流行し、人口の多い都市においては風土病のように絶えず存在していた。
決定的な治療・対策がなかった疱瘡はその感染率の高さや痘痕が体中に出来る外見的な恐ろしさから「疱瘡神」として病気を擬人化し、祀り上げることで病状が軽くなることを祈願されるようになった。

当初は「悪神」として、「一刻も早く我が子から立ち退いてほしい」と祈願されていた疱瘡神であったが、信仰されるにつれて、「我が子の病を軽症ですませてくれる守護神・福神」として祈願されるようになる。人々は疱瘡のことを「人間の悪い要素を対外に追い出す通過儀礼」とし、疫病を引き起こすのは、疱瘡神以外の疫病神たちであり、疱瘡神は患者の症状をなるべく軽いものにしようと助ける神として考えるようになったのである。そのため、その疱瘡神は自分の担当した子供が重症に向かってしまうと、守護神の役目を果たせぬ役立たずとして批難されてしまう。

こどもらをたいせつにいたさぬくらゐならバほうそうがミハいらぬハひ。
それをまもつてほうそうをかるくさせるがそのほうたちのやくめでないか。

疱瘡・はしかの祈祷社であった半田稲荷の大明神は、諸国の疱瘡神たちを集め、このように述べている。これに対して疱瘡神達は、

わたくしどもいちどうにこどもを大せつにまもりますことハなかなかゆだんハいたしめせぬがとかくおやたちがかるはづミにとりあつかひましてほうそうへかぜをあてたりどくなるものをくハせたりいたしてなりません。
そのおこたりをつけこんでいろいろじやまなやつがはいりこんでさまたげをいたします。
いくら子供たちを大切に守護しようとしても、親たちの疱瘡対策に不備がある為に、疳の虫、疫病神などがはいりこんで病状を悪化させるのだ、と疫病神たちが弁明を行っている。(『疱瘡神』H.O.ローテルムン)

とは言え、親は我が子を守る為に必死である。
子が生まれたら呪的印付けをし、呪的な工夫をした産湯で身体を洗浄することによって生涯、疱瘡にかからずに済むというおまじないを施し、それでも疱瘡にかかってしまったらご近所を巻き込んで疱瘡神祭り、疱瘡の治療法として、疱瘡神以外の原因の一つとされていた体内に存在する胎毒を除去するために香油で子どもの背中を摩擦し、治ればお礼詣りを、近所からお見舞いをもらえばお見舞い返しをする。神事・呪い、周囲の人々への気遣いを欠かさないことで、病から我が子を守っていたのである。

疱瘡は一度患うと体内に抗体が出来るため、一生に一度しかかからない病であった。そのため、「通過儀礼」とされていたのだが、つまるところ「誰でも一度は患う病気」と認識されているあたりに並大抵の流行ではなかったことが感じ取れる。

楠瀬大枝が著した『燧袋』の中に長女鍬が疱瘡で亡くなった際の日記に狂歌を残している。

ふミ月の末に もかさといふものにて ミとり子をうしなひけれハ  大枝
此ころの 野わきよ何に わかやとの こはきか花を わきて散しゝ

大枝は鍬の死に対して「何にわかとの小萩が」、つまり「なぜ我が子が」という嘆き方をしている。子ども(お鍬はこの時五歳であった)はしばしば死亡してしまうことを分かってはいても、なぜ、よりによって我が子を失う不運が降りかかってしまったのだろうか、という悲痛な親の嘆きがこの狂歌に表れている。

一方こちらは孫の疱瘡が軽く済んだことを有難がる様子である。

  「ホンニお孫さまが疱瘡を遊ばしたさうでございますネ。夫でも至極お軽い御様子で別してお愛たう
  「ハイサおまへさんネ。暮にあしつめて人手はございませずネ、大きに苦労致しましたが、仕合と軽うございましてホンニホンニ御方便な物でございます。母親がおまへ御ぞんじの通りネ、疱瘡が重うございましたから、どうかと存じましたが、案じるより産が易いで顔にはざつと五粒ばかり、手足に漸々算えるばかりでございました。あれを思ひますますりやア神仏のお力もございますのさ。馬橋の万満寺の仁王さまのお草鞋をお借り申て、丁ど三年になりましたが其御利生でございますのさ。(『浮世風呂』式亭三馬)

子が病にかかったときに親はその病と心して向き合わなければならない。
病にかかるのは仕方のないことだとしても、その病が順調に病状経過し、無事に快復するだけで親にとっては「大仕合せ」であるのだが、できれば可愛いわが子には痘痕など残ってほしくないと願うが親心である。特に女の子であれば嫁入りの際に差し障ることも想像に容易い。

 いも神に ほれられ娘 値が下り(いも神…疱瘡神の別称)(誹風・三)
 算盤を 出してあばたを 仲人する (浦上五六『愛の種痘医』)
 百両は 消え易いが あばたは消えず (『川柳大辞典))
 疱瘡後 鏡かくすも 親心 (『川柳大辞典』下巻)

「通過儀礼」とまで言われている疱瘡、誰でもひとつくらい痘痕が残っていても仕方のないようにも思えるが、かなりきつい言われようである。

 荷の軽い 疱瘡親の 肩やすめ

疱瘡を乗り越え、痘痕も残らず、やっと親も一安心というものである。

四、 女の子の教育

親にとって子は「痘痕もえくぼ」、生まれたときから疱瘡に心を尽くし、軽く済み一安心、さて次の懸念事項はなんといっても教育である。

豊富な育児書や教育書が生み出された江戸時代の特徴は「父親が子どもを育てた時代」ということができる。「家」の継承に重きをおく社会では子育てはいわば「公」のことであり、女を教養して良き子育てをすることこそ家の最高責任者たる男の義務であった。(子育ての)記録を書き残したのは男性が多く、しかも、世に子育て書とよばれる儒者、小児科医、庶民教化師たちの子育て論の多くは、男性が男性に向けて書いたものだったのである。(『江戸の親子』太田素子)

確かに、子育て専門書の著者は男性が多かった。
だがしかし、やはり子育ての現場の主役は母親や子守、祖母などといった女性である。庶民の雑談の宝庫、式亭三馬の『浮世風呂』全編を通してみても、教育に関する話題が繰り広げられているのは専ら第二・三編、女湯での会話を扱った巻である。第二編には十四の会話、第三編は十五の会話が収められているが、第二編には次の四か所、
 

○ おかみさんと女の子連れの母親の会話
(父親に甘やかされ手習いをサボった娘の話)
○ 母親を迎えにきた女の子、そばで体を洗う客
(手習いの忘れ物を取りに帰る娘が弁当をせがむ話から、子どもたちが流行の合巻を集める話、さらには母親たちの髪型や道具の流行談義)
○ 三十歳ぐらいの女房二人
(屋敷勤めから一時戻った娘の自慢と、稽古事など親身にせわしてくれる奥様への感謝の話)
○ 女子の喧嘩へ口を出す母親とたしなめる客
(娘が貧乏人呼ばわりされていじめられたことに腹を立て、よけいなお世話だと騒ぐ母親とたしなめる客。客の忠告に母親が素直に従う。)

そして第三編にはこの一か所。

○ 十歳か十一歳の小娘二人
(芸事と手習いに対する母親の教育熱心さを愚痴る娘とそれに同情する娘)

女湯での会話は第二、三編通して二十九の会話が収められているうち、四つが教育に関する話題である。それに対し、男湯での会話を描いた前編と第四編には教育の話題はまったく取り上げられていない。
これは男性が教育に関心がなかったのではなく、やはり女性が一番、子の近くに寄り添い、湯につかりながら、ときには井戸端会議をしながらお互い情報交換をし、子どものために最善を尽くそうと努めていた姿にほかならない。

母親は子どもが四、五歳になると『子供諸礼躾方』という家庭教材用の浮世絵なども参考にしつつ、自らお手本を見せてのしつけを開始する。七、八歳になると寺子屋に通いはじめ、大体十五歳くらいまでには読み書き・算盤の他にその他それぞれに必要とされる教養を身につけて奉公に出る、というコースが江戸の娘たちの通例であった。


いわゆる「寺子屋」というのは関西でよく呼ばれていた呼称であり、江戸では「手跡指南所」「手習い塾」「手習い指南所」などと様々な呼称で呼ばれていた。江戸後期には江戸市内だけでも四千もの指南所があり、一町内に二~六カ所はあったことになり、これは蕎麦屋に並ぶ軒数である。

現在でも学校には「校風」、会社には「社風」があるようにある程度の人間が集まる場所にはそこの場所特有の雰囲気が発生する。
それは江戸時代の「手習い塾」にしても同様で、師匠の人柄や得意分野によって通う子供たちも異なってくるため、手習い塾ひとつひとつに「塾風」なるものが存在していた。

手習い塾であっても寺子屋であっても入退学は随時可能だったため、気に入る師匠に出会うまで何度でも手習い塾を変えることもできたのである。入学金・授業料はあってないようなものであり、入門させるときには近所の大人から大体の相場を聞きだし、米や酒などを持って子どもと挨拶に出向き、弟子入りさせる。授業料は家が大工なら雨漏りを直し、八百屋ならば野菜を持参するなど、あってないようなゆるやかなものであった。

出席はとらず、始業時間は毎朝五ツ時(午前八時頃)、昼八ツ(午後二時頃)まで手習いをし、昼食は家に戻ってお茶漬けなどを食べるのが普通だったが、弁当持参というケースもあった。

「おつっつぁんがね、あのう、今日は御褒美に、お弁当にしてお遣りと」(『浮世風呂』二編)

子ども同士が師匠のところで食事をするのを楽しむ目的の場合や、

「雨降風間には、転んだりなにか致さぬで、お弁当も能ございますが」(『浮世風呂』二編)

というように、雨や風の強い日など往復するのが困難な場合などであった。同じく浮世風呂にこういう会話がある。

  湯やのかみさま「お玉さんけふはお手習いはお休みかへ
  娘「イヽヱ
  かみさま「ハヽア、おなまけだね
  母「御覧じましな。わたくしの目つまをしのんでは休みたがります。今日もちやんとお爺さんをだまかして、お休みに致しました。兎角おとつさま殿が、あまやかしすぎてこまります。それだから、わたしのいふことはさつぱりお取上げなしさ(『浮世風呂』二編)

手習い塾では「おさぼり」もお咎めなしであったが、親の心境としてはさぼり癖がついては将来困るという心配がある。

初午の 日から夫婦は ちっと息 (宝十三・智)

二月に入ってから最初の丑の日の翌日から手習いが始めるため、家で元気をもてあましていた子どもが半日ほどは手習いに行くのでほっとしている夫婦の様子である。「(家に居てもうるさくて仕方ないので、できれば…)手習いに行かせたい」という親の本音は今も昔も同じである。

そういう思惑の親もいれば、お湯屋で娘が愚痴をこぼすほどの教育に力をいれる母親も存在した。

 お角「わたしのおツかさんはきついからむせうとお叱りだよ。まアお聴きな。朝むつくり起きると手習のお師さんへ行てお座を出して来て、夫から三味線のお師さんの所に朝稽古にまゐつてね、内へ帰つて朝飯をたべて踊の稽古からお手習へ廻つて、お八ツに下がツてから湯に行て参ると、直にお琴の御師匠さんへ行て、それから帰つて三味線や踊のおさらひさ(中略)夫内に、ちイツとばかりあすんでね、日が暮ると又琴のおさらひさ。夫だからさつぱり遊ぶ隙がないから否で否でならないはな。(『浮世風呂』三編)

彼女の母親は地方出身であったため、三味線はおろか、字の読み書きすら出来ないのを恥じて、自分の娘には良い奉公先を見つけてやりたい親心から教育に熱心である。

女の子は手習い塾からの紹介や知人などの紹介から奉公先を見つける。奉公先は通例自分たちよりもワンランク上の生活をしているところに奉公することが多いため、運がよければそこで見初められて結婚できれば、より良い生活をさせてやることができる。だからこそお角の母親は必死なのであろう。しかし、お角は十歳か十一歳。遊びたい盛りである。このあとに

「おとつさんは、いつそ可愛がつて気がよいからネ、おかつさんがさらへさらへとお云ひだと、何のそんなにやかましくいふ事はない。あれが気儘にして置いても、どうやら斯やら覚るから打遣て置くがいゝ。御奉公に出るための稽古だから、些と計覚れば能とお云ひだけれどネ、おかつさんはきついからね、なに稽古する位なら身に染て覚ねへぢやア役に立ません。(中略)おまへさんがそんな事をおつしやるから、あれが、わたしを馬鹿にして、いふ事をきゝません。(『浮世風呂』三編)

と続く。
「いふ事をきゝません」ということはお角も「おさぼり」をしていた可能性が高い。お角の毎日の日課に多少の誇張があったとしても、朝昼晩と手習い・芸事漬けだった娘は少なくなかったのではないだろうか。これは現在の学校生活にも言えることだが、「おさぼり」から学校では学べないようなことを学ぶこともある。しかも、「おさぼり」の分を挽回するのも、また自己責任である。手習い塾の「おさぼり」お咎めなし、という風土はこういったことも踏まえたうえで教育をしていたのではないのだろうか。

手習いで使う教科書は男女共に仮名・文章・人名・村名・五十三次(駅名)・国尽、商売往来などを共通とした。しかし、各々が一番、必要とする知識を学習できるようになっており、女の子は特に手習いと並行して、お角のように芸事も学んでいたため、やはりそれぞれに合ったペースで、八百屋の息子であれば野菜の名前をという風に、必要な知識を学ぶ必要性があったのである。

シンプルかつ実用的で、ゆるやかな江戸の教育は本当の意味で「個」を重んじた教育であり、現代の教育の現場からも学べることが多くあるものである。身分制度があるからこそ、将来どういった素養が必要とされているのかが分かるのであった。
完全に自らの選択で生きていくことの出来る現代ではこういった教育は不可能に近い。しかし「テストで点をとる」勉強で全教科オール5の成績でも「手紙の書き方」や「礼儀作法」を知らない子どもは数えきれないほどいるのではないだろうか。「実状」に沿った教育を「個」に合わせて行い、学歴も偏差値も「人を見るときの判断基準」にされない江戸時代の教育は羨ましいかぎりである。

五、「おちゃっぴい」について

まず、「おちゃっぴい」という言葉自体を辞書で引いてみる。すると、このように記載されている。

おちゃっぴい(「おちゃひき(御茶挽)」が変化した語)① 働いても金にならない、割の合わないこと。②女の子がおしゃべりで出しゃばりなさま。年齢に似合わないでませているさま。また、そういう少女。はねっかえり。
語誌(1)②については、「諺苑」に「おちゃっぴい 婦女子の小慧多弁なるを云」とあるように、類義語の「おきゃん」「おてんば」とは異なり、本来、その言説の面に重点を置いた表現である。(『日本国語大辞典』第二版)

この語誌にある「婦女子」とは「おんなこども」の意であり、「おきゃん」や「おてんば」と異なり、年齢は関係なく「おしゃべりで出しゃばり」な女性のことを指す言葉であることが分かる。では「おちゃっぴい」から派生して、類義語を辞書で見ていきたい。

はねっかえり【跳返】
「はねかえり(跳返)」の変化した語。

はねかえり【跳ね返り】
①はねかえること。反動。②かるはずみなこと。③おきゃんな娘。おてんば。

おきゃん【御侠】
若い娘が活発過ぎて軽はずみなこと。また、そのような娘。おてんば。 語誌もととなった「きゃん」は近世中期以降の洒落本、滑稽本などに例が見られる江戸の俗語で、男女ともに用いられたが、「お」を冠した「おきゃん」は女性について使われた。

きゃん【侠】
①勇み肌で粋なこと。きおって粋なさま。また。そのような人。きおい肌。②女らしさに欠け、はすっぱであること。また、そのさま。おてんばな女性。おきゃん。 語誌(1)本来、男女のいずれに対しても用いられたが、後には、「俚言集覧」に「江戸の俗語。少女のはすなるをいふ。多くは声妓(げいしゃ)のものにあり」

はすは【蓮葉】
①蓮の葉②軽はずみなこと。浮薄なこと。特に、女の態度や行いが軽はずみで落ち着きのないこと、また浮気で身持ちの定まらないこと。また、そういう女。はすっぱ。③「はすはおんな」の略。

おてんば【御転婆】
つつしみやはじらいに乏しく、活発に動きまわること。また、そのさま。特に、そういう女性をいう。おきゃん。おてつく。
※「おてつく」は「おてんば」と同義。(『日本国語大辞典』第二版)

江戸時代は女性の元気が良い時代であった。
先述したように、女性の「やんちゃ」な性質を表す言葉だけでここまで集まるという事実だけでも十分に女性が元気よく生活していたという息吹きを感じることが出来る。

この「やんちゃ」な彼女たちを表す言葉を整理してみると、「おちゃっぴい」の類義語として「はねっかえり」が挙げられている。そして、この「はねっかえり」の項目を見てみると、類義語として「おてんば」「おきゃん」とつづく。「おてんば」「おきゃん」の項目をみるとどちらにも「活発」という言葉が入っている。
「おちゃっぴい」の語誌にあるように、「おちゃっぴい」は「おしゃべりで出しゃばり」という「言動」に重きを置いている言葉であるため、「おてんば」や「おきゃん」のように、そう呼ばれる女性の気質を表す言葉とは似たようで異なる言葉なのである。

ただし、あくまでも「おちゃっぴい」と呼称される対象は元来「婦女子」であったが、その項目は語誌に留められていることを考慮すると、「おちゃっぴい」という言葉が使用されていた時分においては「女の子、娘」に対して主に使用されていたと考えられる。

この「おちゃっぴい」という言葉は江戸時代の川柳、洒落本、滑稽本などによく登場する。

ここで式亭三馬の『浮世風呂』を用いて「おちゃっぴい」という語が何回登場するのかを見てみたい。
この文献は、文化6年(一八〇九年)から文化十年(一八一三年)にかけて発表された『浮世床』と並ぶ式亭三馬の滑稽本の代表作である。「湯屋」という庶民のほとんどが利用する場所を舞台とし、何気ない日常会話が繰り広げられる。滑稽本とは言えども、江戸庶民の風俗研究資料として有力なものであることから題材として採用する。
笑い転げるもよし、反面教師にするもよし、流行談義からその時々の最新の流行を掴むもよし、途中出てくる化粧水「江戸の水」など、「式亭三馬ブランド」の広告を楽しむもよしの滑稽本である。

ここでは女湯での会話を扱った、「二編 巻之上」「二編 巻之下」「三編 巻之上」「三編 巻之下」に限定し、「おちゃっぴい」たちを探していく。

○ 文章中に「おちゃっぴい」と明記してあるもの

・三十歳くらいの女房二人
屋敷勤めから一時戻った娘(九歳)の自慢と、稽古事など親身に世話してくれる奥様への感謝の話。

  きぢ「それに部屋親さまがいつそお気立のよいお方で、これを御自分の子のやうになすつて、お世話なさりますから至極勤ようございます。ソシテ奥様の御意に入りまして、名をばお呼び遊ばさずに、おちゃツぴいヤ、於茶ヤ於茶ヤとお召遊ばして、お客様の入らつしやる度に、此子を御吹聴遊ばすさうでございます。誠に有りがたいことでござります。

この娘はわりと早い時期から奉公に出ているので、奉公先での愛称として「おちゃっぴい」と呼ばれており、母親もそう可愛がられていることを喜んでいる。

・子守りの子と六~八歳の女子四、五人
仲間同士のささいな喧嘩から仲直りして、流行歌をみんなで歌う。
飽きてきてけんかをはじめる。

 はる「能気味だねへ
 にく「うつちやつておきやアがれ。おちやつぴいめ。

同年代の女子に吐き捨てるように言う。罵り言葉に近い。

・下女二人、別家のおかみ、十七、八歳の女性二人
奉公人に対する悪口がきっかけで、主家への悪口となり悪口雑言を言い合っているところへ別家のおかみが現れたので、話題を変える。そこへ、二人の女性(十七、八歳)が会話に入り、大騒ぎとなる。この騒ぎを見ていた喧嘩っ早い中年女性(二十~二十五歳)が怒り、さらに番頭へも怒りをぶつける。

ふな「わつちらア数ならぬ者だから、おべかどんのやうに餌はつきやせん

べか「何だこいつがと湯をすくつてかける又こちらからもすくひかけると両方から加勢が出てざくろ口と風呂の中で大さわぎにくるふ。此時風呂のすみにかゞみ居たるは、うんざり鬢とかいふちうツぱらの中ウどしまさきほどよりだまつて居たりしが、この騒動おびたゞしく、湯のはねるにあつくなつて、風呂のすみから真赤におこり出す

女「ヤイヤイ此あまめらは何をふざけやアがる。いけやかましい何の事たいあたり近所へ湯がはねて是見やアがれ。天窓からお湯をめした姉さんがお一方出来たはい。惣体此あまめらア悪くふざけやアがる。(中略)コレ番頭、こいつらア、打遣置たら、湯の中へ糞をたれて、鬼渡や捉迷蔵も仕兼めへ。片端からしよびき出して、一軒一軒に断ねへきやアならねへぞ。みんな覚期をしやアがれトなり立てにらみつけられ、四五人のおちやつぴいは、いろをかへてしよげりゐる。番頭これを聞てあはてゝかけ来り

ばんとう「モシモシおかみさんお腹立は至極御尤でございります。何を申すも若い人たちだから、跡先の勘弁なしでござります。


人の迷惑を考えずに騒ぐ娘たちに対して、筆者(=娘より年上の者)が説明している。

・奉公先から暇をもらった二人と嫁ひとり
 お屋敷での年中行事や暮らしぶり、言葉遣いなど話し合う。

  むす「私は名代のおてんば物を。ハイおちやつぴいとおてんばをネ、一人で脊負てをります。

「おちゃっぴい」という語が出てくるなかでも最も年長者。
自らのことを「おてんば」で「おちゃっぴい」と評しており自覚あり。

○「おちゃっぴい」の明記はないが「おしゃべり」で「出しゃばり」、「年齢に似合わないでませて」いる女の子たちの会話から「おちゃっぴい」と考えられるもの

・下女二人と湯汲み男
湯汲み男と実のないやりとりのあと、身体を洗い合いながら奉公先のことを話す。最後に三馬自作の『早変胸機関』の宣伝。

  引きちがへて、ふとつてうの下女一人、ざくろ口より出しなにぐいとすべつてあふむけにころぶ「ヲヽあぶねへ。ヤレヤレ痛かつたらう
  ともだちの下女「ヲツトあぶなし。お開帳なんまみだぶつ。
  下女「しやれ所じやアねへはな。アヽいてへ
  トいひながら顔を真赤にしておきあがりすぐに小桶をとる
  ともだちの下女「ヲヤヲヤ転でも只起ねへとはおめへの事だの
  下女「そうさ。チツト違うよ
  トまけをしみにて湯くみの所へ行
  ゆくみの男「(ゆをのろりのろりとくんでゐる
  下女「きりきりと汲な日が短いよ。いつだと思ふ十月の中の十日だぜ
  ゆくみの男「なんだ気のきかねへ。湯屋へ来て辷るやうな古風なことがあるもんか。乙姫時代のことだ(中略)
下女「お丸どん髪を結たの。とんだ能おめへか
お丸「ウンニヤ、おかみさん。
下女「道理だ別に女ぶりが上がった。
お丸「なアんのかのと、ヘンよくいふもんさ。
下女「ほんとうにヨ

「おてんば」とも取れるが、ゆくみの男とのやりとりは長屋のおかみさんも顔負けの口達者なものであったこと、娘らしく友達の髪型をほめることから「おちゃっぴい」と判別する。

・乳母と子守り
 二人の口汚い喧嘩。

  うば「まだまけねへか口ぱたきめ
  子もり「おれが口ぱたきなら、そつちは尻ぱたきだ

口ぱたき…口達者め、おしゃべりめという意味であることから。

・一〇歳か十一歳の小娘二人
 芸事と手習いに対する母親の教育熱心さを愚痴る娘とそれに同情する娘。

  お角「わたしのおツかさんはきついからむせうとお叱りだよ。まアお聴きな。朝むつくり起きると手習のお師さんへ行てお座を出して来て、夫から三味線のお師さんの所に朝稽古にまゐつてね、内へ帰つて朝飯をたべて踊の稽古からお手習へ廻つて、お八ツに下がツてから湯に行て参ると、直にお琴の御師匠さんへ行て、それから帰つて三味線や踊のおさらひさ(中略)夫内に、ちイツとばかりあすんでね、日が暮ると又琴のおさらひさ。夫だからさつぱり遊ぶ隙がないから否で否でならないはな。(中略、母親が無学なため)せめてあれには、芸を仕込ねへぢやアなりませんと、おツかさん一人でじやじやばつてお出でだよ。
  (中略)
  丸「アレアレお角さんお角さん
  トみゝへ口をよせて中にながしてゐる女を横目で見ながら小声にさゝやくアレ。あのをばさんを一寸お見。子が三人有りながら浅黄縮緬の裁をかけてさ
  丸「ヲヤほんにねへ。若い作りだね。あのアレ、ぐるり落に結居るおかみさんの頸を御覧か
  角「イヽヱ
  丸「黒油ではげつてうを隠してさ
  角「アレ小さな声をお仕。きこえては悪いよおまへ
  丸「サア参らう。ヲヤ、おまへの袂から何だか落ました。
  角「ホイ(ト拾つて)ヲヤヲヤ髷結ひの裁だ
  丸「一粒鹿子かヱ
  角「アヽ
  丸「麻の葉もよいねへ
  角「あれは半四郎鹿子と申すよ
  丸「わたくしはね、おつかさんにねだつてね、あのウ、路考茶をね、不断着にそめてもらひました
  角「よいねへ。わたくしはネ、今着て居る伊予染めを不断着にいたすよ
  丸「おまへのも太織かへ
  角「アヽ是はネ、田舎から掛のかたに取たから安いとさ。

手習いに芸事と忙殺される毎日を吐き出すように話す「おしゃべり」、他の客を見てくすくすと笑うところは「ませていて生意気」、髷結いの布や着物を流行のものに揃えるところは流行に敏感な娘らしい。

・人柄よきおかみさんと六十歳近い母親
 孫の疱瘡が軽くすんだ神仏への感謝、娘をお屋敷へ奉公に出す話、三馬店の薬の話、女女中衆の働きぶりの酷評など。

  六十ぢかきばあさま「イヽヱサ、私どものりんめが、やつぱり左様さ。大の差出もので、口をきけば手元がおるすになります。朝飯を仕舞つてそこらを撫まはすと、二階へ上ツて髪に半日かゝります。お昼の支度を仕やよといはぬ内は、物干へ出てばかりむだ口をたゝいて居ます。(中略)サアおまへさん、水を汲候と申て井戸端へ出るとちよつと一手桶提て来るのも漸一時かゝります。其筈でございますはな、お長屋中の男衆を対手にどち狂う隙には同じ女中達と寄り湊て内の事を謗りはしりさ。

下女のおりんが身づくろいや男性や女中仲間とのお喋りに夢中な様子は、おかみさんからしてみれば「生意気」そのものである。

○ 年齢的に該当するもの
 ・手習いをさぼった娘(八歳)
 ・お弁当をねだるお馬(八歳)
 ・流行の簪談議をするおかさとおしつ(中年増=二十二、三歳)
 ・上方客の品定めをする芸者三人、豊猫(十八、九歳)おはね(二十一、二歳)婆文字(二十一、二歳)
 ・流行の着物談議をする嫁お家とお壁(共に二三、四歳)

○ 川柳に登場するおちゃっぴい

おちやッぴい 湯番のおやぢ 言いまかし(三6)

→大人顔負けの口達者な娘

 おちやッぴい 噺の先の 枝を折 (八五22)

→先にオチを言ってしまう、よくしゃべる娘

おちやつひい 鼻の穴から けむをふき (宝十三義5)

→大人の真似をする娘

よしねへと前を合わせるおちゃっぴい(明元義5)

→男性に口説かれるがぴしゃりと断る様子

○『浮世風呂』、川柳に見るおちゃっぴい

これらに登場する「おちゃっぴい」の特徴として、

・よくしゃべる
・年齢は手習いに通い始める七、八歳から二十代前半
・大人を言い負かすほど達者な口をもつ
・ませていて、生意気
・流行好き
・怒られることもあるが、周りの大人たちから温かい目で見守られている

以上六点をあげることが出来る。
彼女たちは、手習いや芸事、奉公に精一杯努めながら、流行のものをおいかけ、時には愚痴をこぼし、周りの大人に叱られながらも、友達と笑い合って短い娘時代を過ごす。そして今度は自分が「おかみさん」に成長していくのである。
江戸時代の娘たちは早いものだと十三、四歳で結婚し、二十代半ばともなると「中年増」と言われてしまう。現在よりもライフサイクルが十年近く早く過ぎ去っていく。

結婚は娘たちにとってこれまで手習い、芸事、御奉公に努めてきた娘時代のゴール地点のひとつであり、憧れでもあった。しかし結婚を機に「貞節」を表すお歯黒をし、出産の際に眉を剃り落すという風習は当時でもかなり抵抗があるものであった。

娘たちがなんの束縛も心配もない生活に別れを告げて結婚生活に入るその日に、娘らしい美しさも失われてしまう。眉を剃り落し、輝くばかりの白い歯も黒く染めなければならないからである。それまではいたずらっぽく、かつまた愁いをふくんでいた目も表情を失い、唇を開いて気持の悪い口の中を見せられるたびに、思わず後退りしてしまうほどだ。女は自分でもその醜さに気づいていて、顔の表情に出てしまう。よく見かけたことだが、人に良く思われたいという欲求をまだ捨てていない年若い既婚女性は、笑うときにはいつも、黒い歯をできるだけ隠そうとして気の毒になるほど奇妙な具合に唇をゆがめていた。(『江戸幕末滞在記』エドゥアルド・スエンソン)

当時日本を訪れていた西洋人に「お歯黒」と「おしろい」はこの上なく大不評であった。嫁入り前の娘たちに対しては非常に好印象を抱いているだけに、驚きも大きいのであろう。

  それ程 惜しくばよしやれと 片眉毛 (安八仁1)

お歯黒をし、さらに眉剃りをする本元服である。眉を剃り落すと、これもまた容貌が激変し、急に老け込んだ顔立ちになる上、眉を剃られる間隔にぞっとし、片眉剃られたところでとっさにもう片方の眉に手をあてがう。剃っている女が「そんなに惜しいのなら、これでやめようか」という。そんなことは出来ないが、両眉を剃り落すということは完全に成人、内儀になるということである。そのため感慨もひとしおである様子がよく伝わってくる句である。

お歯黒に用いられる炭の成分には歯周病・歯槽膿漏にも功能があったため、実と美を兼ね備えた化粧法としてお歯黒は慣行されてきた風習だが、ここまで抵抗があるのであれば一人くらい「結婚してもお歯黒はしない!」と言い張ってみたりだとか、「お歯黒が嫌だから結婚はしない!」と言い出す娘がいてもおかしくはなさそうなものであるが、「家を守る」意識や世間体を気にする「見栄」が彼女たちをそうさせなかったのであろう。その証拠に二十代後半にもなると、結婚していなくてもお歯黒をする女性もいたのである。

六、 江戸の女の子たちの結婚事情

江戸時代、恋愛結婚はまれなことであった。
おおかた、親同士が取り決めた許嫁婚、または仲人が仲介した見合い結婚をするのが一般的であった。男性のうち結婚できるのは二割と言われていたため、男性にとっては結婚できるだけで大喜び、女性にとっては幼少の頃から結婚のために日夜習い事に明け暮れていたといっても過言ではないため、喜びもひとしおである。

新婚カップルのなかでも「新世帯」と特別に呼ばれていたカップルがいた。彼らはお互い惚れあって結婚した「くっつきあい」の夫婦である。お互いに地方出身であったり、親の反対にあったりしたため、長屋で新たに所帯を持ち、生活をはじめるというケースがほとんどであった。

  いくじなさ 二人でめしや かゆを焚き (末三32)
  あら世帯 何をやっても 嬉しがり (天六和3)

新世帯、つまり先述したように恋愛結婚は稀であったため、同じ長屋の住民からは羨ましさ半分、やっかみ半分でこういった句も詠まれたのであろう。

嫁姑問題は今も昔も、お互い悩みの種だが、そういったしがらみがない分、嫁の立場としては楽だとしても、なにをするにつけても自分で試行錯誤を繰り返す大変さは容易に想像できる。しかし、それすらも二人支えあって乗り越えていくことが楽しくて仕方ない様子がこの二つの句から窺える。

では、大部分だと言われていた許嫁婚や見合い結婚で結ばれた二人はどのような新婚生活を送っていたのであろうか。

 花嫁のうちは「もしへ」で間に合わせ (宝十三仁3)

「もしへ」とは現代の言葉にすると、「あの、もし(すみません)」といった少し夫婦二人の間に距離があるような言い方となる。出会ってから期間の短い見合い結婚ならでは、花嫁の恥ずかしさが初々しい。

  「兄さん、兄さん」と言ふうちに孕み (傍五31)
  兄さんを急に「もしへ」と言いにくし (一三〇22)

許嫁婚とは言わば家同士の結婚であり、当人の意思は関係なく親同士で取り決めたものであり、子どものうちから許嫁と称して同居をさせる場合が通例であった。その際は女性が男性のことを「兄さん」と呼ばせていたことから、この句の花嫁も「兄」が「夫」となる変化が気恥ずかしく、戸惑う様子が窺える。

結婚したからには赤子が欲しいが、いまだその兆候が見られない嫁は、近所のかわいい盛りの幼児を自宅に借りだしていっしょに楽しく遊ぶこともあったようだ。

  借りて来て「てうち、てうち」を嫁指南 (安六梅2)

「てうち、てうち」とは手遊びの一種であり、現在も「ちょうち、ちょうち、あわわ、かいぐり、かいぐり、ととのめ、おつむてんてん、ひじぽんぽん」という形に変化し、現在も残っており、インターネットの動画サイトでも手遊びで遊ぶ子供たちの様子を見ることが出来る。この「てうち、てうち」の手遊びは曲亭馬琴の読本『夢想兵衛胡蝶物語』にも登場しており、この場面は架空の少年の国の水子島にて神々が乳幼児と手遊びで遊んでいる場面である。

「さて暇あるをりをりには、、手打ち手打ちといつては手をうたせ、とゝのめとゝのめといつては掌をつかせ、天窓てんてん、けへぐりけへぐり、さまざまの芸をしつけ…」

親から子へ、遊びながら伝えていくものであるため、方言とおなじように細かい箇所に違いが見られるものの、今も昔も、親と子にとってコミュニケーションのひとつであることが窺える。

  「うんめへ、あぎやう」と嫁は借りてくる (安八桜2)

子どもがかわいくて仕方のない嫁が今度は「おいしいものをあげようね」と子どもを借りてくる様子である。

この一連の句からもわかるように、江戸に暮らす人々は子どもを夫婦だけではなく、周りと協力・共同して育てた。

日本の民間信仰のなかに「七歳までは神のうち」という言葉がある。
これは近代以前の乳幼児死亡率が高く、数えで七歳くらいまではまだ人としての生命が定まらない「あの世とこの世の境いに位置する存在」とされ、「いつでも神様の元へ帰りうる」魂と考えられていた。この考え方は、飢饉などの貧困による家族共倒れを防ぐための間引き(子返し、とも言う)と言われた嬰児殺しの実態の肯定化、疫病や栄養失調によって子を失う親の精神的ショックを緩和するために生じた考え方ではないだろうか。

幕末から明治にかけて、日本を訪れた西洋人たちの目を借りて日本という国における子どもの様子をのぞき見てみよう。

「私は世界中に日本ほど赤坊のために尽くす国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界にいないと確信する」

「ここでまた私は、日本が子供の天国であることを、くりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」(E.S.モース『日本その日その日』)

「日本人の暮らしぶりで、一番利益を受けるのは子供たちである。まず子供時代は、誰でも思いのままに過し、父母は、伸び伸びと育つわが子の姿を慈愛に満ちた目で見守り、これを慈しむのが楽しみであり、自分たちの満足でもある。」(『幕末日本図絵』アンベール)

当時の日本にとって西洋人は「お客様扱い」であったはずである。
嬰児殺しは主に農村で横行していたため、西洋人が滞在するような地域では全くなかったとは言い難いとしても、そう明るみに出るほど頻繁に行われていたとも考えづらい。幕府としても、嬰児殺しのような、自国のマイナス面をわざわざ見せるようなことはないであろう。
しかし、彼ら西洋人の目に映った日本の子どもたちの姿、川柳に登場するような微笑ましい様子が偽りの姿であるはずはない。

子を簡単に失いやすい時代であったからこそ、江戸の大人たちは子供を可愛がり、大切に大切に育てていたのである。

七、 まとめ

女性は魅力的である。その漆黒の髪は飾りのついたヘアピンで三つの束に手際よくまとめられている。彼女たちはにこやかで小意気、陽気で桜色、おしろいは少々濃いめだが、これはとくに紅を刷くか、唇を金色に染めたい気分になる時とかいうのが本当のところだ。(『ジャポン1867年』リュドヴィック・ド・ボーヴォワール)
住民は均整がとれていて小柄である。ことに婦人に関しては、アジアのどんな地方でも、この土地の女性ほどよく発育し美しい人に出会うことはない。(『江戸参府旅行日記』エンゲルベルト・ケンペル)
若い娘は自由気ままを満喫していて重労働をやらされることも稀で、娘時代になすべきふたつの仕事、楽しむことと身を飾ることに、身分相応、十二分に没頭することができる。娘たちの優雅なる暇つぶしは笑うこと、おしゃべり、お茶を飲むこと、煙草をふかすこと、化粧、それから何度もある祭りの催しに参加することである。
(中略)
日本女性は男たちの醜さから程遠い。新鮮で色白、紅みを帯びた肌(よくあるように顔料で塗りたくっていなければの話だが)、豊かで黒い髪、愁いをふくんだ黒い瞳と生き生きとした顔は、もう美人のそれである。(中略)背は低いが体格はよく、首から肩、胸にかけての部分は彫刻家のモデルになれるほどだ。また手足の形が良く、びっくりするほど小さい。(『江戸幕末滞在記』エドゥアルド・スエンソン)

これらはすべて江戸末期に日本を訪れた西洋人から見た日本人女性の姿である。先述したとおり、お歯黒とおしろいだけには戸惑いを隠せなくとも、ここまで先祖を褒められると、子孫としても鼻が高いものである。

これらの記述からわかることは、江戸の娘たちは江戸の大人たちだけでなく、全く異なる文化を持つ西洋人からも可愛らしい、と愛されていたということである。
とりわけスエンソンが述べている「娘たちの仕事」(下線部分)は、まさに「浮世風呂」に出てくる「おちゃっぴい」たちそのものではないだろうか。汗水流して働いている大人からすれば、小言のひとつも言いたくなる程、楽しそうな暮らしぶりであることは間違いない。

ただし、その楽しい暮らしが出来るのは本当に女性の一生のうちの一瞬、娘時代だけのである。
病に打ち勝ち、手習いをし、さまざまな芸事を覚え、奉公し、結婚して子供を授かり、その子供もまた自らと同じ困難を乗り越えて大人になっていく。

その様子をかつての「おちゃっぴい」たちは小言を言いながらも見守っていく、というサイクルの繰り返しが魅力的な江戸の女性の姿を作りあげていったのである。

現代の日本は「繋がりが希薄」と言われている。
しかし二〇一一年三月一一日に起きた東日本大震災の直後、日本国内はこれまで感じたことのないほどの優しさ、思いやりに包まれていた。徒歩で歩いて帰る人同士で声を掛け合う姿、会社に留まり、道行く人に温かい飲み物や食べ物をふるまう姿、非常時の中、なんとか「通常通り」を取り戻そうと勤めをまっとうしていた人、たくさんの人々が亡くなり辛い思いを現在もされている中で不謹慎ではあるが、多くの日本人が感じていたはずであることは「日本人もまだまだ捨てたものじゃないな」ということではないだろうか。

非常時は、人の本質が見えるものである。
その中で多くの人がお互いを気遣い、支え合い、思いやりを持って行動していた姿は本来の日本人の姿ではないだろうか。近代化の波に飲み込まれてしまう前の、西洋人が褒め称えるほど魅力的であった日本の姿を、先日の震災を通して垣間見た気がしてならない。

時代が違えば、文化や風習が変化していくことは当然である。
ただ、過去から見習うことも多くあるはずである。この「おちゃっぴい」たちはちょうど、現代に生きる私たち大学生もそう呼ばれてしかるべき年齢である。

彼女たちは、自らの「分」をわきまえたうえで、スエンソンの言う「娘たちの仕事」をしていた。「分をわきまえる」ということは自らが置かれている状況で、いったい何を担っているのかをしっかりと把握したうえで、自分の能力を伸ばしていくことを言う。そして「分」は時代と同様、その時々により変化する。

現代に生きる私たちは、江戸時代の「おちゃっぴい」たちと同じ「分」ではない。何事にも選択肢が広ければ、ライフスタイルも人それぞれだが、ただしその分、責任もついてまわる。その責任も受け止められなければ「分をわきまえて生きる」とは言えないであろう。

これは個人的な思いだが、大学を卒業することで、人生の第一幕の終焉を感じている。両親の庇護のもとから本当の意味で離れ、自分の未熟さも、社会へ出ることの不安もすべて抱えて、自らの足で歩んでいく時である。
私の憧れる、逞しくしなやかで、明るく前向きに生き抜く姿がかっこいい江戸の女性たちをお手本に、現代の「おちゃっぴい」として、「分」をわきまえた生き方をしていきたい。

参考文献

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神保五彌校注 岩波書店 一九八九年
「江戸のセンス」 荒井修・いとうせいこう 集英社 二〇〇九年
「さくらん」 安野モヨコ 講談社 二〇〇三年
「お江戸でござる」 杉浦日向子 新潮社 二〇〇六年
「江戸庶民風俗図絵」 三谷一馬 中央公論社 二〇〇七年
「西鶴と浮世草子研究vol.4 特集[性愛]」 諏訪春雄・広嶋進・染谷智幸編 笠間書店 二〇一〇年
「深読み浮世風呂」 青木美智雄 小学館 二〇〇三年
「平凡社ライヴラリー72 江戸の少年」 氏家幹人 平凡社 一九九四年
「異文化としての子供」 本田和子 ちくま学芸文庫 一九九二年
「江戸の女性―躾・結婚・食事・占いー」 陶智子 新典社 一九九八年
「近世の「家」と家族 子育てをめぐる社会史」 太田素子 角川学芸出版 二〇一一年
「大江戸カルチャーブックス 江戸三〇〇年の女性美 髪型と化粧」
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「粧いの文化史 江戸の女たちの流行通信 ポーラ文化研究所・たばこと塩の博物館企画編集 ポーラ文化研究所 一九九一年 
「都風俗化粧伝」 高橋雅夫 平凡社 一九八ニ年
「江戸の化粧」 陶智子 新典社 一九九九年
「江戸美人の化粧術」 陶智子 講談社 二〇〇五年
「日本の近世14 文化の大衆化」 竹内誠編 中央公論社 一九九三年
「日本の近世15 女性の近代」 林玲子編 中央公論社 一九九三年
「江戸のおしゃべり 川柳に見る男と女 」 渡辺信一郎 平凡社 2〇〇〇年
「江戸わかもの考」 野口武彦 三省堂 一九八六年
「江戸ノート」 山本昌代 新潮社 一九九七年
「お江戸風流さんぽ道」 杉浦日向子 小学館 二00五年
「杉浦日向子の江戸塾 特別編」 杉浦日向子 PHP研究所 二00八年
「ぶらり江戸学」 杉浦日向子 マドラ出版 一九九二年
「江戸の女 鳶魚江戸文庫2」 三田村鳶魚 中央公論社 一九九六年
「江戸ッ子 鳶魚江戸文庫9」 三田村鳶魚 中央公論社 一九九七年
「世事見聞録」 武陽隠士 岩波書店 一九九四年
「江戸の親子」 太田素子 中央公論社 一九九四年
「娯楽の江戸 江戸の食生活 鳶魚江戸文庫5」 三田村鳶魚 中央公論社 一九九七年
「思えば江戸は」 稲垣史生 大和書房 一九八八年
「老舗の商法 江戸あきんどの知恵袋 いま受け継ぎたいこと、活かしていきたいこと」藤井康男 大和出版 一九九三年
「色っぽいキモノ」 井嶋ナギ 河出書房新社 二00六年
「浮世絵に見る江戸の子どもたち」  くもん子ども研究所編著 小学館 二000年
「燧袋」楠瀬大枝 高知市立市民図書館 一九六七年
「疱瘡神 江戸時代の病いをめぐる民間信仰の研究」
ハルトムート・オ・ローテルムン 岩波書店 一九九五年
「幕末日本図絵」アンベール 雄松堂書店 一九六九年
「日本その日その日」 E.S.モース 平凡社 一九七〇年
「皇都午睡」西沢一鳳 一八八三年
「日本国語大辞典 第二版」日本国語大辞典第二版編集委員会, 小学館国語辞典編集部編 小学館 二〇〇〇年―二〇〇二年
「誹風柳多留 一~三」山澤英雄校訂 岩波書店 一九九五年
「初代川柳選句集 上・下」千葉治校訂 岩波書店 一九九五年
「子育ての書1」山住正己・中江和恵編注 平凡社 一九七六年
「ジャポン1867年」リュドヴィック・ド・ボーヴォワール 綾部友治訳 有隣堂 一九八四年
「江戸参府旅行日記」エンゲルベルト・ケンペル 斉藤信訳 平凡社 一九七七年
「新編川柳大辞典」 粕谷宏紀編 東京堂出版 一九九五年
「川柳大辞典」 大曲駒村 編著 高橋書店 一九六二年
「愛の種痘医:日本天然痘物語」浦上五六 桓和出版 一九八〇年


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