「凪待ち」再び生きるために必要なのは

白石和彌監督の「凪待ち」を鑑賞してきました。Twitterにアップしたお絵かきレポート(3枚)はこちら。

こういう慎吾ちゃんが見たかった

白石和彌監督は「日本で一番悪い奴ら」「虎狼の血」の印象が強く、男臭さとバイオレンスを愛する硬派な監督というイメージを持っていました。

そんな白石監督が主演に香取慎吾を起用すると聞いたとき、私は「監督には『明るく元気な慎吾ちゃん』ではない一面が見えたのかもしれない」と期待しました。そして蓋を開けてみれば、ギャンブルをやめられず半ばヒモのような生活を送っているのに、なぜかほうっておけないダメな男という、期待以上の役柄でした。

話がそれますが、1995年に放送された「沙粧妙子 最後の事件」というテレビドラマがあります。当時10代だった香取慎吾は、このドラマで狂気の殺人犯を演じました。

あのとき彼が見せてくれた演技は、当時感じた衝撃とともに強く記憶に残っています。私は、あのドラマで見せてくれた「アイドルは休業中です」といわんばかりの香取慎吾が見たいとずっと思っていました。

映画「凪待ち」は、そんないちファンの願いを叶えてくれる作品です。ありがとう、白石監督。

なぜか目が離せない、郁男という男

郁男は、闇の中でさらに闇の深いほうへ行ってしまうようなダメな男です。恋人の亜弓のお金に手をつけるし、軽率に暴力を振るうし、少なくないお金をギャンブルに費やします。

しかし、男らしさを感じさせる体格や、ふとしたしぐさや表情がかもし出すかすれた色気は、「女性が惹きつけられる男」のものです。白石監督は、香取慎吾という役者にこの「男性性」を求めているように感じました。

郁男は体格がいいので、暴れればそれだけで怖い存在です。でも、決してケンカが強いわけではありません。加えて、彼の暴力は自分より弱い人には向かないんですよね。チンピラやヤクザなど、絶対に勝てない相手に殴りかかっていくのです。そして返り討ちにあい、ボコボコにされます。

郁男は殴りたいわけじゃなく、ダメな自分をとことん殴ってほしいんでしょう。

亜弓が殺され、すべてがどうでもいいと言わんばかりにお金をつぎ込んでいたギャンブルも、少しずつ賭ける意味が変わっていきます。「金さえあればやりなおせる」と言わんばかりの鬼気迫る表情は息を飲むものがありました。しかし、そういうターニングポイントでギャンブルという方法をとってしまうのが、郁男という人間のどうしようもない弱さなのだと思います。

台風の日に川べりを歩くような、何かの拍子に足を取られて何もかも失ってしまいそうな生き方しかできない郁男。でも彼がギリギリで踏みとどまることができたのは、周囲にから差し出される手があったからです。宮崎叶夢が演じる競輪仲間の「ナベさん」は、もう1人の郁男であり、その対比の描写が見事でした。

そこにあるのは絶望だけじゃない

白石監督がインタビューで語っていた、「多くの人命や日常生活を奪った津波は、同時に海を生まれ変わらせた」という話は非常に印象的です。

破壊や喪失の次に来るのは再生であり、世界はどちらかだけでは成り立たないようにできている。生物が命を全うし死を迎えるにはまず生まれ、生きることから始まるように、すべてが表裏一体の陰陽でつながっている。

津波に多くのものを奪われた亜弓が「いつか行きたい」と夢見ていたのは、世界一きれいだといわれるサンブラス諸島の海です。海は、瞬く間にすべてを飲み込む力を持つ恐ろしい存在であると同時に、人を惹きつけてやまない美しさをあわせ持った存在として描かれています。

美波はかけがえのない母親を喪ったけれど、腹違いのきょうだいが誕生する瞬間に立ち会うことができました。

白石監督、ずっとバイオレンスが好きな監督だと思っていましたが、実はとんでもないロマンチストなのでは?

ただ、裏を返せば「愛情」は「憎悪」にもなるということ。この映画のポスターに踊る「なぜ殺したのか?」というキャッチコピーは、ある意味本質なのかもしれません。

海は凪いでいるか?

私たちは、津波がくるとわかっても逃げることしかできません。やみくもに立ち向かえば命や大切なものを奪われてしまう状況では、ただひたすらに凪を待つしかないのです。

大きな悲しみや怒り、絶望も同じなのかもしれません。あがいてみても、ヤケになって泥沼にはまってみても、ダメなときはとことんダメだしどんなに手堅い車券を買ってもハズれます。

映画は希望の兆しを感じさせる結末を迎えますが、郁男の中の海は未だ荒れたままなのでしょう。それでもまだ生きているし、壊れるものがなくなればその次は、生み出す力の出番です。

やさしい人たちがたくさん出てくる、「再生」を信じる力をくれる映画でした。


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