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私にとって文章を書くことは

こんにちはnote!
今、こんな気持ち。プログラミング言語の勉強が "hello, world"(こんにちは、世界)で始まるように、noteに向き合うことで文字に自分の心を乗せ、「私」というものの輪郭を確かめられるのが、とても嬉しい。

だから私は、発信の間隔が空いても、気にしない。
正確には、『気にしなくなった』。
Facebookを始めたての頃、とてもビックリしたことがある。繋がりのある人と直に会った際、「最近投稿してないね、元気無いの?」と言われたのだ。Facebookでの投稿=生存確認を含めた私自身なのか。

違う。それはただ、毎日発信することを、疑いもなく当たり前とする価値観に照らして言っているだけだ。そういう価値観もある。世界は多様だから。
だからある程度でも、自分はどういう「あり方」でSNSを利用しようか、と決めておかないと、外野の声ばかり耳に入ってくることになるんだな。

今、私のSNS利用は、以下のように落ち着いている。
①一番に、(偶発的にも自発的にも)自分の心を良い状態にして、感じる
②手を動かしてそれを確める
③目の前に表れる(視覚化)
④それを再度検証して、言葉にしてみる(ここでSNSを利用
⑤読んでくれた方の反応も含めて、再度検証してみる
また①に戻り、繰り返す。

私は発信の間隔を気にするより、今、己の状態が良いところにあるかの観察を忘れないでおきたい。

それってVAKモデルっていうらしい

この①→⑤のサイクルは、自分の試行錯誤の中で生まれたのだが、ほぼ時を同じくして、これを裏付ける考え方と出会った。
佐宗邦威さんの『直感と論理をつなぐ思考法』である。

直感と論理のあいだを自由に行き来しながら、発想を磨き上げていく方法が紹介される中で、VAKモデル、という考え方が示されている。
筆者はこれを、

K(Kinesthetic=体感覚の)

V(Visual=視覚の)

A(Auditory=聴覚の)

の順序で考えるのが、新しいものを生むためには自然な順序ではないか、という仮説を立てている。

私にはこれを受けて、思い当たることがあった。
2019年の初めに名刺を新しくしたとき、私は『スピード名刺!』を謳う店に駆け込み、そこのデザイナーさんに作ってもらったのだが、一緒にモニターを見ながら「なんとなく余白が気持ちよい」ところで決め、そこに手描きでイラストを添えることにした。

デザインの根拠は無い。
これこれこうだからこういう配置にした、と説明もできない。
だけどこれは真っ白なままお渡ししても、イラストを描いても、大丈夫、という確信だけはあった。

さくらの日々名刺

確信は当たった。
新しい名刺は、見てくださった方、受け取ってくださった方が皆「イラストが有るのと無いのと、それぞれにコンセプトがあるんですね!」と、私以上に分かってくれた。

イラストを添えれば「私のできる事(技)」のプレゼンになり、何も描かれていないままだと「私のサービスポリシー(あなたの想いを描きます)」のプレゼンになる。

…これ、感想をいただけたから出来た言語化である。
当の本人は言語中枢を通さず作ってしまっているので、説明を求められても言葉が出ず、ただアシカのようにおぅおぅ、としか言えないのだ。
分かってくださる方には良いのだが、そうでない方のためにも、何より自分のために、生み出した後、もう一度言語中枢を通す訓練も必要だな、と痛感した次第だ。

以降、視覚化してから→言語化して検証。を大事にしている。
すごく大切なことなんだけど、言語化→視覚化の順ではない。
例えば、シニア世代に訴求したいから、そういう人物像を描いて、と言われてそのまま描くのでは、私の中で、確信が得にくいのだ。
感覚的に、なんとなく気になるところをネチネチ質問させてもらう中で、こういうことかな、というイメージがわく。それを描き出してみる。言語化して検証。『あなたの事業が実現する世界では、彼らはこういう風に過ごしているのではないですか?』と。

佐宗さんの本に話を戻す。
私は嬉しかったのだ。K→V→Aの順序で物事を考えられたら、ほぼ感覚だけで生きてきた私も、これからに希望が持てるぞ…!と思って。

私は論理に弱い。
だけど論理的な人というのは、まぁうちの両親のことなのだけど、論理的に説明すれば伝わるはず、分かるはず、という前提で生きているから、私のような思考回路が理解できないのだよ。

もし私のことを論理的だと思っているなら(だって文章読みやすく書けるじゃない!ですと?)、ありがとう、だが全力で否定しておくぞ。
両親と対話ができるようになりたかったから。
そして社会での生きづらさを、不器用さを何とかしたくて、頑張ってきたんだ。

ただ、ひとは全くの別人になるには無理がある。感覚優位な人間は、感覚優位の延長上に言語化とコミュニケーションを模索したいものだ。

私はその希望の発見を、夫に話してみた。
ところで私は夫のことを『私の青い鳥』と(ひそかに)呼んでいる。
私が真実を求めて外で試行錯誤し、家に帰ってそれを話すと、もう知っているんだもの。
今回も、スマートなひと言で返してきやがった…
「つなぎ方さえ知っていれば、感覚的でも、大丈夫なんだよ」


(おまけ)自分の心を良い状態にするために、最近やったこと

というわけで、①一番に、(偶発的にも自発的にも)自分の心を良い状態にして、感じる、私はこれを一つひとつ検証していく。

それは、いきなり風光明媚なところに行くことでも得られるし、目の前の、心を乱し、煩わせることを解決することでも得られる。
私にとってのそれは、messy(散らかった)。

...子どもの頃は何とも思わなかったのに。
messyな状態が心を蝕むのは、大人になって、たくさん、抱えるようになったからなんだと思う。放ったらかしにしといても、自分の無理な頑張りで片付けても、パンクしそうなんだぜ。何とかしていきたい。

ということで、これは先述の佐宗さんの本にも出てきた、モーニングジャーナルで深掘りしてみる。
生活の中で、これが出来ていたら気分が良くなること。もっと踏み込んでいえば、最低限、これをやったら自分を許せること

・シンクの洗い物が片付いていること
・家族に、それなりに揃えている食事を出せていること
(※何も考えられない時は、スタメンを出せばよいのだ)

・洗濯した、そして干せていること
・早めに就寝できていること(質の良い睡眠)

振り返ると、それなりの生活リズムを目指しながら、食事のしたくを起きたとこ、出たとこ勝負でしていたり、時間も手間もかかる洗濯を『溜まってきたな、洗濯機回さなきゃ』でやっていたり、家事のことを考えたくない結果、振り回されていたような。

振り回されないために、先に頭を使って考えるんだ。

例えば、早起きして、色々片付けようとしても、上手くいかないのはなぜ。
早起きはいいもんだ、と盲目的に思い込んで、「何のために」がすっぽ抜けていたら、大切な『継続』がない。家庭というのは毎日グルグル、回すものだからな…

早起きしても、上手くいかない事柄を挙げる。
・まだ寝ている家族に気を使って、音も立てられないし、照明もつけられない
・寒いけど、暖房器具をつけられない(ここで本心が出てきた!音を立てられない以外に、家族とずれた生活リズムで使う、光熱費を気にしている…?)
・オリジナルイラストのストックを増やそう!→いきなりラフ描くとか、やろうとしていることがいきなり壮大過ぎる
・そもそも明日の準備をしてから眠れていない(就寝前は、だらだらスマホ触ってる…いい悪いじゃない。ここをなぜ?と掘り下げるんだ

そんな早朝にわざわざ起きて、そんな早朝だからこそ、できること。
ここを考えるのが大事なんやぁあ…
・トイレに行く(デトックス)
・白湯を飲む(デトックス)
・身なりを整える(リセット)
・ストレッチする(リセット)
()内は今、言語化されたのを見て、付け足したラベルである。

これだけで十分、朝を大切に過ごせている気がする。肌のお手入れもできるかな(蒸しタオルして、保湿して、日焼け止め塗ればいつでも外出できる)
じゃあ外出しちゃう?
日中、あれこれとし始めると、それを遮断してスケッチのために外出することが難しいんだよな、とも思っていて。ならばこの早朝に。
洗濯機を回して出れば。帰るころには仕上がっていて、干すだけだよ…!
こういうとき、ピースがはまったようで、とても嬉しい。

ちなみに、朝起きたてに歩く効用は、こちらの記事の中で、『あさんぽ』という可愛らしいネーミングで、たくさん紹介されていて。

自粛期間中に読んで、まぁ素敵、素晴らしい、でもどうしても、自分の生活に落とし込めなかったやつ…(泣)
今、自分がスケッチという行為を通じて、「頭を空っぽにして、周りをよく見る、感じる」ことを必要としている事が分かったから、ようやく落とし込めたぞよ。だから、朝起きたてに白湯を飲みながらスマホをいじくると「頭が空っぽになるどころか、情報であふれる」ことも分かって、サッと外出できるようになった。

とはいっても、自分の昨日から、ようやく実行できたけど。
今朝はすごく冷え込むというから、自分は布団のぬくもりを選ぶのだろうか、と思っていたけど、外に出る魅力の方が勝って、あさんぽできた。
雪がちらつくのが見られた。すごく、うれしかった。
今日の夜は、カレーにします。煮込むぞ。


ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!