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アカウント凍結されて気づく、テキストしか書けない自分の弱さをひとり反省会する。

先日twitterのアカウントが凍結されましてね。
[システムがこちらのアカウントをスパムアカウントと誤認識]とのことで、今はもう凍結解除されています。

「アカウント凍結=擬似的社会排除」

まったく身に覚えのない理由で SNSから排除されたのは、ともすると冤罪容疑をかけられたような、社会から排除されたような、そんな衝撃でした。なんせ10年近く毎日のようにそこにあったコミュニティからはじき出されたわけですから...

twitterさんのサポートも割と煩雑で、問い合わせに対して要領を得ない回答が返ってきたり、「発生している問題を詳細に記載してこのメッセージに返信」という指示に従ったら、1ヶ月近くノーリアクションで放置されたりと、こちらの発したものが無視される「排除」を感じます。

実際のところ別アカウントを作ることができるので、現実に起きているような「社会に存在しているのに無関心」みたいなことは起きないです。けれど、これまでの交流関係が失われるし、そもそも「SNSアカウントが凍結された」というのは決してポジティブな要素ではないですよね。

世界からtwitterが消えたなら

いわゆるツイ廃です。

既存のコミュ二ティをここで維持しているというのもあるし、長期間使ってきたぶん、求めている情報が集まって、その精度も高いんですよね。

twitterを凍結された直後、これはちょうど良いから世間を席巻するinstagramだったりtiktokなんかを眺めていると、そういう質的な面は時代の変化に合わせて変化する主要ツールに合わせていくべきなのかなとも思ったりしました。情報が集まる場所に所属を作っておかないと置いていかれてしまう不安もあります。

ただ、どうしてもinstagramとかに移行できないのは、自分が「文字」の表現手法しか持っていないからなんですよね。
多くのSNSがイメージやムービーの表現が主流になってきた現状、テキストが補足するための存在へと変わってきているのをヒシヒシと感じます。

もしtwitterというコミュニティを失ったら「テキスト型の発信手法しかない」というのは、ひどく弱い存在になってしまうのではないか?と思ったりするんです。

凍結から学ぶ、弱さについて

アカウント凍結に学ぶのは、自己表現を多様化されていないこと。
それが弱さにつながってしまうということ。

さもWEBまわり強いですよみたいな顔をして生きているくせに、ちょっとしたつまずきで弱者となってしまうのは現実でもネットの世界でも一緒ということを痛感します。

しばらくの目標に「instagramを毎日開く」を意識していかなければと心に決めるのでした...


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