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元号の変化した日のこと

「変化(する)」という言葉を使って例文を作ってみましょう、と韓国語の先生が言うので少し考えて「연호는 변하지만 시대는 변하지 안아요.」と答えた。元号が変わっても時代は変わりません。변하。ピョンナ。変化、する。「それは社会的な発言ですか?」と先生。今から一週間前のことで、元号が変わってから二週間経ったときのことだった。その日はたしか朝から細かい雨が降っていた。2019年4月30日。火曜日。日常が断絶される前の天気をその後とは違ってまったく思い出せないことはあるけれど、経って一カ月にも満たない、しかも前もって定められた終わりの日でさえ天気の感触はもうあやふやだ。昼過ぎに平成最後の出社をして打ち合わせのための進行表をつくるが右上には西暦で記されている。16時すぎに新宿の喫茶タイムスへ。ここも時代、だ。なにかの純喫茶特集で紹介でもされたのか、往年の客層が若者たちにかき消されるように風景が一変していて、当たり前だけど、みな普段の会話をしている。アーティストの二人と七月に出版する企画について、改稿の方向性と進行の確認をする。じつはバンクシーが小池百合子だったら面白いですね、みたいな話で笑い合う。手には傘。京王百貨店地下で明日から行く韓国の友人へ文明堂のカステラを買う。そのままJR西口地下へと抜けると普段より人はまばらだ。何気なくない日の何気ない瞬間を記しておこうと思って改札の前でスマホで写真を撮る。新大久保の韓国料理屋サムスンネへ、普段は一番遅い自分が今日は一番早く到着する。沖縄から来ている友人と、沖縄で会った友人と、男三人での晩餐。甘酢漬けした大根に巻いて食べる鴨肉。食べ始めて少し経ったところでようやく実は明日からも韓国に行くんだと打ち明ける。自分以外の人に自分のすべきことをひとつ決めてもらう、というゲームを三人でする。車で送ってくれるというのでパーキングまで歩く。駐車場に向かうという行為はいつもなぜこんなにもよく覚えているのだろう。二人の黒い肩越しに光るフロントガラスの雨粒が時間の先へワイパーではぎ取られていく。信号で降ろしてもらい、橋を渡り、靄のように霞む夜空を少し見上げてまた写真を撮る。雨にオレンジ。これが記憶してくれるだろう。「平成は私たちの青春だったのかもしれないね」。そうだ。と、人工的な区切りには距離を置こうと思っていた自分ですら、その1時間前の濡れて光る路面のなにもなさに逆にセンチメンタルな気分になる。帰宅してテレビをつけると特大年末番組のような空間の中にタモリの姿がある。映る傘の群が雨の持続を告げている。カウントダウンが始まる。人間全員にもし一度だけ死んで生き返られる能力が与えられたとしたら世界は良くなるのだろうか、悪くなるのだろうか。それとも有給休暇のようにそれは使い損ねられて、結局はなにも変わらないのだろうか。そう思ううちに、とにかく元号は変化した。

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