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木のあれこれ。no.5 ピアノを知る、ベーゼンドルファー。

ピアノのほとんんどは木材でできている。
世界3大ピアノと呼ばれる、
「スタンウェイ」「ベーゼンドルファー」「ベヒシュタイン」
のピアノたちはどれも何人もの職人の手で1台を数年かけて作るような傑作である。木と音楽は切り離せない。
音でも木は昔から人々を楽しませてくれた。

ピアノの良し悪しを決めるのは
①設計
②素材
③製造方法
だそうだ、ものづくりはやはりこの3次元に集約される。

ピアノの木についての記事をまとめる前にまずは
ピアノのことを記事にしたいと思う。

Bösendorfer ベーゼンドルファー

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モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、リストなど、音楽史に名を残した偉大なる作曲家たちを輩出した“音楽の都”ウィーンで設立された世界三大ピアノのひとつ、ベーゼンドルファー。

「至福のピアニッシモ」といわれる美しい響きを現代へ継承し、伝統工法を守って熟練した職人たちの手で十分な時間をかけて製作されており、創業以来約190年間という長い歴史のなかで5万台程度しか生産されていない、芸術色の強いピアノである。

ベーゼンドルファーの魅力

オーケストラ・サウンドを思わせる「ウィンナー・トーン」
スタインウェイの強靭で煌びやか、パーカッション的な響きに対し、ベーゼンドルファーは打鍵した後の持続音が長く、また柔らかくて多彩、暖かい音色が特徴で、クラシックのみならずジャズ、ポップスなど幅広いジャンルに対応している。

シングルストリングス(総一本張り)による純粋な響き
ベーゼンドルファーの全ての弦は、一本一本が独立して張られる。これによってより良い調律安定性が得られ、より不純な音がなくなり純粋な響き、音階を得ることが保証される。
また、中音域で演奏中に弦が一本切れたとしても、3本のうち1本だけが影響を受けてあとの2本が残るため、演奏は中断せずそのまま続けることができ、音の損失は最小限となる。

ピアノ全体が共鳴する、演奏者にとって豊かに響く楽器
ベーゼンドルファーで使用される木材の85%以上が響板でも使用されるスプルースであり、海抜800メートルの中央アルプスのある特定の地域で育った楽器に最適なスプルースのみを使用し、最長で6年間の天然乾燥を経て使用される。
各パーツが十分に時間をかけて最良の状態で使用されるため、演奏者自身に理想の共鳴が得られるよう設計・製造されている。

ベーゼンドルファー、唯一のサウンド
ベーゼンドルファーはピアノメーカーで唯一、着脱式の独立したカポダストロを高音部に採用している。これは、最も正確な高音域の調整を可能にし、数世代に亘り、ベーゼンドルファー本来のサウンドを保証するものである。

歴史

1828年 イグナッツ・ベーゼンドルファーによりウィーンで設立
現存するピアノで最も古い歴史を持つ

19歳よりオルガン製作を学んたウィーン生まれの職人、イグナッツ・ベーゼンドルファーにより、ベートーヴェン、シューベルトが世を去った1828年、ウィーンでベーゼンドルファー社が設立された。

イグナツは1794年、腕の良い家具職人だったヤコブ・ベーゼンドルファーと妻マルタの息子として、ウィーンに生まれた。19歳の時、当時最も有名なピアノ製作技術者の一人だったヨゼフ・ブロッドマン(1763−1848)に弟子入りする。若いイグナツは大変な才能に恵まれていたようで、1815年には既に、ウィーン美術アカデミーから表彰されている。その頃のウィーンには、ナネッテとヨハン・アンドレアス・シュトライヒャー夫妻、ヨハン・シャンツ、アントン・ヴァルター、コンラート・グラーフ、ミヒャエル・シュヴァイクホーファーなど多数の著名ピアノ製作技術者が存在しました。ブロットマンの下で貴重な知識と技術を身につけたイグナツは1828年、65歳で引退したブロットマンから事業を譲り受けた。

ウィーンで、フランツ・シューベルトがベートーヴェンの隣に埋葬された1828年7月25日、イグナツ・ベーゼンドルファーはウィーンで、権威あるオーストリア楽器製造業者ギルドのメンバーとしての権利を正式に認められた。イグナツは会社設立資金として500グルデンを出資したが、1859年に亡くなった時、息子のルートヴィヒに遺した会社の資産価値は145,000グルデンになっていた。

1838年ウィーン:若き作曲家であり、アーティストだったフランツ・リストの激しい演奏に耐えられるピアノは多くないというのは有名な話だった。友人に勧められたリストは、ウィーンで予定されていたコンサートで、ベーゼンドルファーのグランドを演奏しようと決める。ベーゼンドルファーのピアノが頑丈に作られ、品質も高かったため、リスト自身驚いたのだが、その特徴ある芸術表現を手加減する必要はなかった。聴衆は熱狂し、ベーゼンドルファーは一夜にして名声を築き、続くコンサートでもベーゼンドルファーが使用されました。これを機に、リストとベーゼンドルファーの間に親交が生まれた。

ウィーンでビーダーマイヤー様式がもてはやされた当時、ピアノはステージ用ではなく、家庭の娯楽用楽器と受け止められていた。その頃、オーストリア帝国政府はどちらかといえば抑圧的で、社交生活はひそやかなものだった。プライベートなサロンや集まりなど、いわゆる上流階級の催しは、地元のアーティストや作曲家に敬意を表す場として、高級な娯楽が提供されていた。代表的な例が、フランツ・シューベルトを称え、名付けられた、『シューベルティアーデ』だった。こうしたサロンではピアノが大きな役割を果たし、当時のウィーンに音楽と娯楽の担い手である、ピアノ製作技術者が387人も存在したことは、不思議でも何でもなかった。ベーゼンドルファー社が設立された1828年、イグナツ・ベーゼンドルファーは4台のピアノを製作したが、1835年にはその数は200台に増えていた。1839年、オーストリア皇帝はイグナツ・ベーゼンドルファーに、ピアノ製作技術者として初の栄誉である、『宮廷及び王室ご用達ピアノ製造技師』の公式な称号を授与しました。その後も、数々の金メダル、最優秀賞に輝いている。

間もなく、フランツ・リストやアントン・ルービンシュタインの親交を得たイグナツ・ベーゼンドルファーは、ドイツ、イギリス、イタリア、ロシア、ブラジル、エジプトなどでも積極的に活動した。ベーゼンドルファーグランドへの需要が高まり、新工場を建設することになったが、残念ながら完成を見ることはありませんでした。1859年までにイグナツは亡くなり、会社は腕の良いピアノ製作技術者になっていた息子のルートヴィヒの手に委ねられます。ウィーンの音楽愛好家は挙って、イグナツの死を悼んだ。

死後は息子に受け継がれている

その後、演奏会場の大型化やオーケストラの大規模化に対応する為にベーゼンドルファーも他のピアノメーカーと同様に音量増大と楽器の強度を上げる事に取り組んでいったが、演奏家や聴衆の「強い音」に対する要求が高まる中にあってもベーゼンドルファーは人の心を惹きつける「至福のピアニッシモ」を磨き続け、商業ベースに流されずに丁寧な手作業による製造を維持し続けた。

第二次世界大戦後は経営がアメリカの企業に移りましたが、2002年にオーストリアの銀行ウループが経営権を取得し、名実ともにオーストリアへ復帰しましたが、2008年にはヤマハ(日本)の子会社となっている。

2008年、日本のヤマハ株式会社がベーゼンドルファーを買収した。ベーゼンドルファーが持つ貴重な伝統に配慮し、それを尊重するため、ベーゼンドルファーは、ヤマハの完全子会社でありながら、オーストリアの独立企業として業務を継続している。事業の再編が進んだことと、幸いにも楽器産業で経験豊富な、成熟したパートナーを得たことにより、販売も拡大し、ベーゼンドルファーは体力を強化することができた。販売についてはヤマハと緊密に連携しながら、ベーゼンドルファーは現在も全てのピアノを一貫してウィーナー・ノイシュタット工場のみで製造している。ベーゼンドルファーはピアノ界の伝統メーカーとして、いまもなお年間約250台をウィーンに近い創業の地で製作している。

参考:https://www.boesendorfer.com/ja
   https://1853.jp/pianos/bosenbrand/bosendorfer_history/


ベーゼンドルファー東京

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