ミモちゃんお泊り

【 1982(昭和57)年11月 20歳 】



 件の夫婦の事件の翌日。今日のフランス語Bは休講、もう一つの授業はサボっても問題なし。ありがたい。いつもよりゆっくり眠れる。でもいつもよりといっても起床は午後3時半。まだまだ睡眠欲は満たされない。目覚まし時計が憎くてしょうがない。しかし4時15分くらいに大学へ行き、ミモちゃんを迎えにいかなくてはならない。そう、いくら2人の夢のためとはいえ、バイトの為に会う時間を疎かにはしてはならない。まだ、時間には余裕があったが、さすがに腹が空いていた。なんだかんだいって食欲が超旺盛な年頃である。私は袋麺のインスタントやきそばをフライパンに2つ入れ作り出した。すると火をつけて3分くらいであっただろうか、ドアを叩く音が…。私はNHKや新聞の勧誘かと思いコンロの火を小さくし息を潜めた。が、まずいっ! 換気扇が回っているではないか! おまけにその羽の間から蒸気を含む温かい空気が出ているのは明白である。これは居留守をつかうにはあまりにも状況が悪い。…とその時…。

「研ちゃんいる? 開けて。」

その声はミモちゃんだった。もちろん私は直ぐドアを開けた。そしてまずは挨拶代わりのキス…。

「えっ? 授業は? どうしたの?」

「4限早く終わってロビーにいたら、ちょうど藤川君がいたから車で送ってもらったの。」

「そうか、NHKかと思って焦ったよ。」

と話しているとミモちゃんはコンロを見て、

「あっ! やきそば!」

「もうすぐできるから一緒にたべよう。」

「うん。」

できあがったやきそばを、フライパンのまま安っぽい小さなテーブルに乗せる。読み終わった週刊漫画雑誌が鍋敷きだった。お皿も使わない。向かい合って頭をぶつけながら食べた。ところで、袋麺のインスタントやきそば、特にソースが粉末タイプのものはフライパンの内側にソースが乾いて固まることがよくある。上手く剥がせばまるで薄い鰹節のようだ。超ジャンク的ではあるが、20歳当時の私はそれが大好きであった。なのでそれを箸で『ペリペリ』っと剥がし口に運び出すと…

「ダメェーッ!」

っとミモちゃんが大きな声を上げた。

「え…何…どうしたの?」

「そんなの食べちゃだめ。」

「何で?」

「発癌性が高いからダメ。」

「えっ…?」

今も昔もそうだが、日本人は食品に含まれる発癌性物質に敏感だ。当時このような『焦げたモノ(焼き魚であったり)』にはそれが多いという話が、メディアにもよく取り上げられていたのだ。だからミモちゃんは私を心配してそういうことを言い出したわけである。しかし私は、

「これくらいは大丈夫だって。」

と言い、再び食べ始めた。すると…

「研ちゃんが癌になっちゃう!」

と言い、ミモちゃんは『えーんえーん』と泣いてしまった…。『えええっ!これで泣くの!』と正直思ったが、私のことを心配して純粋な涙を流す彼女の前ではさすがにどうすることもできない。私は涙を飲んでペリペリソースを諦めミモちゃんをあやした。

「わかった! ほら! もう食べないから…ねっ!」

「ほんと…?」

「うん。もう捨てたから。」

「これからも食べない?」

「うん。」

「約束して…。」

「うん。約束するから。」

正直なところ、焼き魚の焦げた皮などいわゆる『炭化』したものと、インスタントやきそばのフライパン上にできたソースの塊はまったく質の違うものだと断言できるレベルなのだが、とにかくその場はそうするしかなかった。ともあれ、なんとかミモちゃんの機嫌を戻すことに成功した。

 ちなみに、現在の奥様と某焼き肉食べ放題の店でのこと、奥様は『画用紙があればデッサンに使えるのではないか』というレベルの黒い塊になった炭化した肉を満面の笑顔で「どうぞ。」と私の皿に置いたことがある。これはこれで凄まじい。そもそも…いや…コレ以上考えるのは止めておこう…。

 その後、昨夜の夫婦の話でしばし盛り上がる。田舎町の事件としてはなかなかセンセーショナルな『拳銃の密造』。ミモちゃんはただただ驚いていた。だが、じきにミモちゃんの反応が鈍くなる。どうやら眠くなってきたようだ。そして間もなく私の意識も薄くなっていった。…zzz

「んっ…あれっ…あっ!」
「ミモッ! ミモッ!」

「…んん…。」

「起きろって。大変。」

「どうしたの…?」

「もう9時半過ぎてるっ!」

「えっ! うそっ!」

基本、ミモちゃんは6時半くらいの電車で帰る。だから(遅めの)お昼寝をする時は目覚まし時計をかけるのだが、この日は忘れてしまっていたのだ。また、この9時半頃というのが問題。地方都市に暮らした経験のある人にはわかるであろうが、田舎のローカル線(電車)の終電は恐ろしく早い。始発の出雲大社前駅から東に一駅の浜山公園北口駅に行っても最終電車にギリギリ間に合うかどうかというタイミングだ。いや…何とか間に合う…。ミモちゃんと私は慌てて愛車パッソルDXの駐輪場に行き。エンジンをかける。そこで『いざっ!』っというタイミングで前を向くと…なんと無情にも自転車に乗った警官が進行方向の道路上を移動しているではないか…。そこでジ・エンド! 違反の2人乗りは見つかっていないものの、ミモちゃんを終電に間に合わせることが不可能になった。これは大変だ。

 ところで、いくらローカル線とはいえ電車で1時間程かかる距離。タクシーを使うのは非現実的だ。かといって国鉄で帰るのもやはり時間・費用共に相当厳しい。仕方なく2人で話し合った結果、私のアパートに泊ることにした。まあ、当然の成り行きといえばそれまでだ。しかし家庭にもよるが、自宅から通う女子大生が事前に親の許可なしに外泊するのは当時としてはかなりタブーであった。なので『1人暮らしをしているミモちゃんの女友達が風邪をひいてしまい、看病をするためその子のアパートに泊ることになった。』というシナリオでこの危機を乗り切ることにした。早速、ミモちゃんと同じイスパニア語学科で1人暮らしの坂巻さんのアパートに行き、事情を話してその子の電話でミモちゃんの自宅へ連絡する。ミモちゃんが一通りお母さんに事情を話し、そのまま受話器を坂巻さんにバトンタッチ。

「私のせいですみません。」(坂巻)

こうして協力してもらうと、さすがにお母さんもOKするしかない。これでミッションコンプリート。何度も同じ手は使えないが今回はとにかくOKだ。ところで、その夜は運よく出雲電子のバイトのない日であった。だから一晩一緒に過ごせるのだ。因みに…勘違いされては名誉に係わるので言っておくが、『たまたまバイトのない日で、たまたま目覚まし時計をかけ忘れ、たまたま寝過した時間が終電に間に合わなかった。』ということを念押ししておきたい。そう、計画的又は意図的な要素はまったく無かったとご納得いただきたい。

 さて、恩人の坂巻さんに謝礼として肉まん2つを献上する約束をし、彼女のアパートを出る。その夜は星空がきれいだったので、私たちはバイクを押してゆっくり歩いて帰ることにした。東南東の空、少し低い位置でオリオンが大きく存在感を誇っていた。
 やがてアパートに着くと2人は上着も脱がずに抱き合ったままベッドに倒れこんだ。じっと目を合わせ暫く何も言わない。とにかく静かな時間だった。お互いの心臓の音が聞こえるのではないかと思うくらいだった。ムードは最高潮。私の心の中にあるちょっとHな野心が動き出すかと思われたその刹那。なんとミモちゃんのお腹の辺りから、

『ぐぅぅぅ~。』

空腹のサイン(音)が静寂を打ち破った。ミモちゃんは顔を紅潮させ体を反転させた。まあ無理もないことだ。でも私は構わず彼女に声をかける。

「ミモ…。こっち向いて。」

「いや…恥ずかしい…。」

「気にするなって…。」

「だって…。」

「何か食べよっか?」

「…うん…。」

私は雑多食料の入った段ボール箱から『マルちゃんカレーうどん(インスタント袋麺、東洋水産株式会社)』を2つ取り出し、背中を向けて横になっているミモちゃんの顔前に腕を伸ばしてそれを見せた。すると…

「あーっカレーうどん! どうしてあるの?」

「この前スーパーに一緒に行った時、何気に熱い視線で見てなかった?」

「えっ! あ…うん…。」

「もしかしてと思ったから、この前買った。」

「うん。これ好きなの。」

「やっぱりね。食べよっ!」

「うんっ!」

ミモちゃんはすっかり『お腹の音』のことを忘れていた。そして2人は部屋着に着替えた。ミモちゃんは私の上下のスウェットだ。

「あっち向いていて。」

「はいはい。」

こういう恥じらいがあるのはかわいい。着替え終わった2人はコンロの前で手をつなぎ、時々キスをしながら調理。適当な鍋がなかったのでフライパンを使った。できたら、やきそばと同様にまたまた安っぽい小さなテーブルに乗せる。もちろん読み終わった週刊漫画雑誌が鍋敷き代わりだ。そしてやっぱりお皿も使わない。向かい合って頭をぶつけながら食べた。何度もぶつかる度にだんだん可笑しくなって2人で大笑いした。胃袋も気持ちもすごく温まった。

 鍋を洗いベッドに並んで座ったらもう12時を過ぎていた。2人は再び体を密着させた。私はミモちゃんの頭をなでた。そしてその手を頬に移し彼女の顔を私に向けさせた。目が合った。再び静寂の中、呼吸と心臓の鼓動だけが聞こえる。

『うっしゃーっ! いけるっ!』

今夜はなんとしてもキス以上の段階に駆け上がるのだ! こんなチャンスはそう滅多にやって来ない! 一気に勝負を決めるのだ! …と私が臨戦態勢になったその刹那、

『ジリリリリーン ジリリリリーン』

空気を読まない電話の呼び出し音が静寂を破る。例えようのない最悪のタイミングだ。しかしそれでも私は千載一遇のムードを優先するため、電話のベルを無視してミモちゃんの目を見つめて離さない。だ…が…

「け…研ちゃん…。」

「んっ?」

「電話に出なくていい…の…?」

「んっ…いいんじゃないかな…。」

「でも…大事なことかも知れないよ…。」

「…俺も今大事なシチュエーションなんだけど…。」

「えっ? …そ…そう…でも…。」

「でも…?」

っと必死の攻防を続けているが、電話のベルは20コールくらいしても止まらない。確かに、こんな時間に長い呼び出し。大切な電話かもしれない。

「や…やっぱり電話に出た方がいいよ。もしかして私の家から坂巻さんに電話があって、それを連絡してくれてるかも知れないし。」

「それはそうだな。そうだったら大変だし。」

私は泣く泣く電話に出た。千載一遇のチャンスがどんどん私から離れて行く…。いや、もう離れて行くどころか消失してしまったも同然だった。

「はい。もしもし。」

「おおっ! もぉしもぉ~しっ! 出るの遅いぞーっ!」

その能天気な声の主は件の前田勝司だった。そう、出雲電子のバイトに誘っている小学校からの友人だ。彼はこの電話の第一声でわかるように、相当なバカである。あろうことかミモちゃんといい感じになれるかもしれない超大チャンスを見事に消失せしめたのはこのバカであった。

「オマエは…こんな時間に電話って…。」

「なっ? 怒ってる? もしかしてまずい時に電話したか?」

「まったくその通りじゃボケェッ!」

「ワルイワルイ。それなら切るわ。」

「もう遅いわ。んで、用はなかったのか?」

「ああ、そうそう、バイト行くよ。OKか?」

「そうか。詳しいことはまた話すけど、明日からでもいいぞ。」

「それなら明日行く。」

「10(22)時半までに来いよ。」

「OK! OK! それじゃあ今から頑張れよ!」

「だからもう遅いわっ!」

前田には今日の午後、ミモちゃんが来る前に電話をし、彼のお母さんに折り返し電話をしてもらうようにしていたのだ。私は電話を切りミモちゃんを見る。すると私の電話での話しっぷりが可笑しかったようで笑っていた。また、自分の親の関係で坂巻さんから連絡があったのではないことに安心した様子だった。私との微妙な緊張感とその後の安堵感、そのせいか強力な睡魔に襲われミモちゃんは間もなく眠ってしまった。逆に私は…どこにもぶつけることの出来ない感情を抱いたまま、悶々と数時間を過ごした。拷問のような長い夜だった。それにしても…普段の行いか…。ロマンチックな時間は続かない。


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