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だいたいほとんどクソバイス

ちょこっと辛めなタイトルから浮かんだ。
ためにならないアドバイスがクソバイスですね。アドバイスって、どういうときにもらいたいです?困ったとき、助言が欲しいとき、新しい視点が欲しいとき、背中を押して欲しいとき、そんなところですかね。

でも、勝手にされちゃいません?求めてないときに。そういうのが全部クソバイスなのですね。全然受け取らなくていいんです。だって欲しくないんだから。

大好きなステーキ食べて、大好きなラーメン食べて、大好きなカレーライス食べて、お腹いっぱいで満たされた状態。幸せに満ち溢れてる時、これあなたのために用意した唐揚げだから食べてー!!って言われても、無理!!いらんわ!!ってね。どれだけ私が唐揚げラバーでも。

用意してくれたこと、私のことを思ってくれたことに感謝はするかもしれないけれど、それが食べる理由にはならない。いらないと言う権利が私にはある。食べ物ならわかりやすいけど、言葉だと難しいことがある。

例えば上司から、例えばお世話になった知人から、例えば親から、例えば私よりもその分野において知見の多い知り合いから、その「有難いお言葉」をもらったとき、遠慮や罪悪感や恩義から受け取りたくないのに、その人を立てる為に、「ありがとうございます。やってみます。」なんて私はよく言っていた。外面のいい良い子ちゃんだった。

本心からずれた言動をすれば、心が少しずつ削られる。削られた心は麻痺して無痛になる。無痛の心は少しずつ重く沈んでいく。本音で生きても反発がすごいけど、心は軽くなっていく。前者を経験したのち、私は後者で生きていくことを決めた。

何でもかんでも跳ね除けるというわけでもない。感情が動いたならそれを感じ切って、私の考えとは違うなと思って、どうしてこの人はこの助言をしたのかと立ち返って分析して、それでどう対応するか決める。自分が結果納得すれば受け取って実行することもある。脳内自分会議。

もちろん、私も誰かに何か言うことはあった。この本好きそう!と思ってamazonのリンクを送りつけたり、勝手に元気のない後輩をランチに誘って先輩風吹かせたりしていた。勝手にお菓子とか花とかプレゼントしてた。今思えば、私はあなたにとって価値のある人間ですよって示すことに一生懸命なだけで、本当の意味では相手に寄り添っていなかった。自分の無価値観を必死に他人を使って埋めようとしていた。

今は、誰かに何か言うときは、想像上でしかないが寄り添うようにしている。もしくは、ただ伝えたいから伝えるようにしている。受け取ってくれなくても、既読スルーでも、それで嫌われてもいいと思っている。人にアドバイスするってそのくらいの湿度調整が必要なんじゃないかな。

ちなみにアドバイスとは

アドバイス(advice)
[名](スル)忠告や助言をすること。また、その言葉。「先輩としてアドバイスする」(デジタル大辞泉より)

ほんでもって、忠告は

ちゅう‐こく【忠告】
[名](スル)まごころをこめて相手の欠点や過ちを、戒めさとすこと。「友人に忠告する」(デジタル大辞泉より)

さらに、助言は

じょ‐げん【助言】
[名](スル)助けになるような意見や言葉を、そばから言ってやること。また、その言葉。助語。じょごん。「友人として助言する」(デジタル大辞泉より)

調べてみてびっくりした。「欠点や過ちがある」もしくは「助けが必要」と言う前提で伝えるのがアドバイスなんだね。私はそんな偉い人間じゃないや。ご覧の通り性格も悪いし。笑

言葉のプレゼントはとっても素敵。勇気付けられたり、明日への活力になったり、救われたり、癒されたり、まさに万能薬。でも、薬と思って手渡しても毒になることもある。毒か薬かは自分で決めていい。お薬は用法・用量を守って正しくお使いくださいね。

いつも温かいご支援をありがとうございます💕サポートしたいと思われるような文章をこれからも綴っていきます✨