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#日々のこと/原美術館でソフィカルの限局性激痛を観た、ある週末の午後のこと

先週の土曜日か日曜日に原美術館にソフィ・カルの「限局性激痛」の展示を観に行った。(もともと小さな声のボリュームをさらに小さくして)実はね、あの展示、あまり心が震えなかった。でも(ソフィ・カルは現代アートのカリスマだし、周りにも好きなひとが多いからちょっと、いや、だいぶ小声になる)わたしには、ソフィ・カルの作品に共鳴するだけの感性の受信機みたいなものを持ち合わせてなかったんだと思う。とても残念で悲しいことに。作品を観るときって不思議なことが起こるけれど、わたしはアートの知識なんて持ち合わせていない。だから知識を片手にアートを眺めて「ふむふむ、あぁ、素敵!」と感動することってできない。そういうものがあれば作品鑑賞の手助けになったり、もっと味わい深く作品を観ることができるのかもしれないから、そのへんは少しコンプレックスでもある。でもそういうものをまったく持ち合わせていなくても、そのアーティストと感性の波動(なんてスピリチュアルな響き!汗)がピタッと合うと、体の中に水が流れ込むように、ダーッと何かが入ってくる。そのときは、作品に目がビタッと貼り付いて引き剥がせなくなる。ずっと観ていられる。その間、感じる心はどこか遠くへ出かけて行って、世界をぐるりと巡って、遠くからこちらへ帰ってくる。そういう状態になるとき、心からその作品に出会えたことに感動する。そしてその作品とまた離れなくちゃいけない悲しみをこらえながら、「この作品はこの美術館に預けておくね」と自分に言い聞かせてその場を去る。わたしが心が震えた!と感じるときはだいたいこんな感じ。

ソフィ・カルの展示は、アンハッピネスまでのカウントダウンの方がシビれた。90日間という空白の時間(なんとなくわたしは空白という捉え方をしたんだけど、彼女が日本に滞在した時間は、やることがない、完全なる自由な時間。フラットな時間だと思った)を何をして過ごすか。どうやって時間を潰すか。その空白の90日間が翻って縮小版の人生という気がしたから。普段は仕事とか家事とか予定とか、いろいろあるから、人生について空白を感じることはあまりないけど(むしろ追い立てられている!)、生きてるって本当は80年前後の長さを持った空白の時間をどう過ごすかということに尽きるのではないか。だからカルが体験した90日の空白を私だったらどう過ごすんだろう? その時間をどう感じるか?すごく興味がわいた。90日の空白なんて、今のわたしの人生には用意されていない。でもそれっておかしくない? とも同時に思う。仕事とか予定とかにわたしの人生は縛られて過ぎてるんじゃないかと。だから空白の1日1日に、どんな人と出会い、どんな言葉を交わし、どんなことをして過ごすのかすごく興味深かった。

最近、心打たれた言葉に宇多田ヒカルの言葉があるんだけど、「人生なんてただのイメージで、あるのは今日の過ごし方だけ」。もう、もう、人生とは何かをこれほど端的に言い表した表現はないと思う。宇多田ヒカル、天才! だからわたしは今日という1日の過ごし方にすごく興味がある。みんな大切な1日をどんなふうに過ごしているんだろう?って。アンハッピネスまでのカウントダウンは、30歳の頃のカルがどんなふうにして日本での1日を過ごしていたかが見えるから、写真と日記を照らし合わせながら彼女が過ごした、かつての1日を想像するのが楽しかった。今なんてインスタグラムがあるから、みんなの1日とかその中のひとコマがインスタグラムに集められていて、好きなときに見られるって本当に素敵なサービスだと思う。ロマンティックだよね。同じ時代を生きている人たちがどんな毎日を送っているか、本人から直接聞かなくても、勝手にのぞき見ることができるっていう。だからかな? しばらく会ってなかった友だちとお茶しても、久しぶりに会った感じがしないもんね! 勝手に彼女の毎日を知っているような気分になる(もちろん、それは本当に知った気になってるだけなんだけど)。それが逆にネガティブに働いてしまうときもあるけど、インスタグラムの発明は基本的にはハッピーなものだと解釈している。そんなことを考えながらカルの展示を観ていた。今回は原美術館の展示と同時に別のギャラリーでもソフィ・カルの展示をやっていて、わたしはペロタンの展示の方が、好きだった。それについてもまた、noteを書きたいな。

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#東京オリンピックまであと488日

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