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「好きなことで、生きていく」は「好き放題しても生きていける」へ。レペゼン地球炎上に寄せて

個人的にはレペゼン地球というグループのことは知らなかったし、ジャスミンという人がDJ社長という人からのセクハラを受けて辞めるというツイートだけを目にして「酷いことがあったもんだ」と表面的な同情心を抱えつつ、遠い世の中で起きた悲しいことの一つとして冷たく処理した、というのが実態に近い。

その後、実はそれは嘘で新人を売り出すためのパフォーマンスだった、ということを動画で知ったとき、僕の感情が動いたのは、まず第一には「よく聴いていてカラオケで真似する程度には好きだったマキシマムザホルモンが動画に出演している」ということに対してで、義憤というよりは好きなバンドが人を騙すようなことに加担していたことに対する失望だった。

このパフォーマンスには、好き勝手なことを言ってくる人々に対する皮肉であるとか、セクハラを告発すれば証拠がなくとも一方的に誰かを断罪できる世の中に一石を投じるだとか、何かしら意味があったのかもしれない。少なくとも、多くの人の心に小さくないさざ波を立てて、議論を呼んだという点において見過ごせない効果はあったとは言える。

ただそれが手法として受け入れられるべきものかというと、そうは全く思えない
。Twitterにおける善意は確かにインスタントに見えるかもしれないし、検証されない義憤は危ういというのは僕自身が普段からことあるごとにツイートしている内容でもあるから、結果だけ見れば僕も彼らも同じものを批判しているのかもしれない。

じゃあどんなTwitterであればよかったのか? 僕は今回見事に騙された身として「道で転んで泣いている人に同情したら『嘘だよばーかばーか』と指を刺されて笑われた」みたいな状況であると感じたけれど、じゃあ「あの転んで泣いている子は多分演技だから助けないようにしよう」という思考が支配的になる空間が是であるとでもいうのだろうか?

正当な手続きや検証を踏まない、私刑のような告発や一方的な「叩き」には、「それが善意や正義感からくるものであっても」僕も反対するところだけれど、その手段として「そもそも善意や正義感自体を否定し嘲ることが是とされる状況を作る」ことは選びたくはない。善意や正義感というのは切れすぎるナイフのように扱いが難しいけれど、当然それ自体が悪いわけではない。

これは若者世代に常識がないとか、中高年の頭が硬いとかそういう問題ではなく、
①資本を持たない人達が成り上がるための手段としてSNSや動画投稿が最適なものになった
②SNSや動画投稿では拡散されることがマネタイズに直結するため、話題性が最大の価値になった
③マネタイズを合理的に突き詰めた結果、「社会通念上許されない」というある意味での「抑圧」が、目的意識よりも優先されない事項となった

という流れがあるように見える。②までは世の中の流れ、③は本人達の資質によるところが大きいけれど、②まで至れば③に至る人は今後も出てくるのではないだろうか。

実際のところ、レペゼン地球の人達は(少なくとも自己認識の上では)ほとんどダメージを受けていないはず。本件で怒っているのはもともと彼らにとってターゲット外の人間達で、彼らのターゲットの人達はレペゼン地球への忠誠心を強めている。レペゼン地球のファンは、ファンでない人達が怒るほど、ロイヤリティを高めるだろう。

製品のあり方もマネタイズ手段も多様化し、昔のように「みんなが好き」なものを作っていれば売れる時代から、「それぞれが好きなものを追求すればお金になる」時代へのシフトは確実に起きている。Youtubeが掲げる「好きなことで、生きていく」は現実化しつつある。

しかしその裏にあるのは「好き放題しても生きていける」という、社会通念に対する挑戦でもある。社会から怒られても一定数のファンがいればびくともしない、という人達に対して、明確に法を犯している以外の理由で抑制を求めるのはもう難しいのかもしれない。自分が利益を得るのに社会全体の同意を得る必要がないのであれば、社会全体を縛る常識に従う必要性を感じなくなるのは、必然であるともいえる。

聖書という道徳規範がない日本で、法律の強制力なしに社会通念に従わせるのは、実は結構大変な作業なのだろう。

日本は道徳心が強いとよく言われ、それが住みやすい社会を作る要素の一つだったけれど、一方で「抑圧的なムラ社会」を典型例とした「共同体ならではのしんどさ」も併せ持っていた。一部の人達は、そのしんどさを飲み込んだところで得るものはない、と見限ったのだろう。

こう考えると、生存戦略としてはきっと正しいのだろう、という気もしてくる。だって、彼らを社会通念に従わせたところで、社会はその隷属に見合う報酬を渡せない(と少なくとも思われている)のだから

とはいえ僕としても、冒頭で述べたように、彼らが作っていくであろう社会を良いものとして全て飲み込むことはできない。それは僕が考える良い社会からは外れた位置にあるものだ。誰もが騙されるのではないかと疑心暗鬼になり、人の善意が踏みにじられるのを当然視するような社会は受け入れがたい

まだオチになるような答えは持てていないけれど、最近よく聞かれる包摂という概念がここでも必要になってくるのだろうな、と感じる。少なくとも、立場が異なる人間同士がお互いにある程度の歩み寄りが行えるようなしくみが作られなければならないのだろう。

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