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小説『磨心郷』1.「Bar Bristol」

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心が、やつれていた。
心が、何も音を立てなくなっちゃいそうだ。
磨耗した心を鋭くさせるやすりが必要だった。

不快だ。
そして腐海だ。
僕はこの腐海に生きている。そして、この腐海を選んだのは自分自身だ。

会社という檻に自ら入り、やりたくもない仕事を押し付けられ、心を擦り減らしては働いている。
疲れを癒すものは、音楽と映画。週末は天国。月曜の朝は地獄。そんなリピート感に苛まれつつ、体は会社へと向かう。社会人の憂鬱。それは、五月病という言葉では浅はかな程深く長い。
いつまで続くんだろう。
憂いは喉仏をきつく締め付け、耐え難き焦燥とストレス、および無力感の波はサランラップのように体にまとわりついている。

自分の価値は何か。
自分にとって幸せとは何か。
わからない。
でも逃げたくは無い。
人生の勝ち名乗り受けたい。

現代の文明社会に生きていくためには、高度なコミュニケーション能力という名の口先の上手さと、ポジティブ・シンキングという名の空元気と、明晰で高回転の頭脳という名のずる賢さが不可欠である。その全てが、僕の中には満たされていなかった。
あまりしゃべらない少年だった。そして、あまりしゃべらない青年に育った。ただそれだけ。
僕にとって「しゃべる」という行動は、ちょっとした苦痛とじわりとくる悲しみを伴う作業なのだ。内面に渦巻く感情や、思考や、説明や、色んな事を表現する際に口から搾り出す「言葉」は、それに伴う変換作業によって様々な抵抗を受けて瑞々しさを失う。一人伝言ゲームみたいに。心の奥底から口先に出てくるまでの、距離にすればほんの小さな間に、何でこんなに違ったものに生まれ変わってしまうんだろう。

腹の中の細胞が身をくねらすようなもどかしさ。それは宙ぶらりんな迷走感を助長している。21世紀を生き抜くスキルが、僕には足りない。
努力はした。でも、奴らは見放した。台無しの努力の破片を見つめて立ち尽くす。かっこ悪いサラリーマンにだけはなりたくないと願っていた。避けようと身悶えていた。しかし、現実はこうだ。自己嫌悪の渦中に僕はいる。早く抜け出したい。抜け出さねば呼吸が出来なくなっちゃいそうだ。

会社帰りの電車の中、僕はそんなことを思い巡らしながら、つり革にぶら下がっていた。中央線快速。家畜同様の扱いでぎゅうぎゅう詰めの車内は、檻の中の一部だ。
午後11時半。高円寺駅に着く。
僕は駅前の牛丼屋で牛丼セットをかき込むと、自宅へと歩を進めた。

ぴた。
ぽた。

何やら冷たいものが落ちるのを感じた。それは雨の始まり。傘は無い。
自宅までは駅から徒歩十分程度。まだ三分の二以上あった。僕の念に反し、雨足は思いのほかクレッシェンド。

やがて、辺りは土砂降りの様相を呈してきた。僕のスーツはさらに漆黒。染め上げられちゃった。あいにく近くにコンビニなどは無い。どこか雨宿りの場所は無いだろうか。

そこで僕の目に入ったものは、イギリス国旗の看板だった。「Bar Bristol」という名の店である。自宅から駅の道程の途中で、以前から気になっていた店だ。何かにとり憑かれたように誘われ、僕はその店へと入っていった。ドアを明けると、店内には数人の客とマスターが静かにたたずんでいた。

「いらっしゃい」

齢30代後半ぐらいだろうか。マスターは中年というには若すぎ、青年というには年老いた、痩せ型でお洒落な男性である。割とこざっぱりとしたファッションで耳にはピアスをしていた。


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