私の百冊 #14 『谷蟆考』中西進

画像1

元号「令和」の考案者がどうやら中西進先生であるらしいとの報道に接した際、僕が「ふふん」と小さく自慢げに鼻を膨らませる一方で、奥さんがハッとしたように目を見開き「パパの本棚になんだかいっぱいなかったっけ!?」と、まるで、あってはいけない事実に気づいてしまったかのような言い方をした。まことに失礼な人である。世の中どうも「奥さん」なる人たちは、このように失礼であることが多いように思われる。(この件に関しては別途検討すべきような気がするけれど、一方で、あまり深掘りしてはいけないような気もしないではない)

さて、実際のところ、中西先生の本ならいっぱいある。今ちょっと数えてみたところ、講談社文庫版の「万葉集」5冊も含め、17冊ばかりある。当然であろう。20世紀の我が国に生を受けておきながら、中西先生の本を一冊も持っていない人がいるなんて(僕の奥さんがそうだけど)、それこそあってはいけない話だと言ってしまおう。しかしながら、その中から「この一冊」を選ぶはたいへん難しい。――そこで、僕の好きな「生物」に関わるところから選んでみたのが本書だ。

「谷蟆」は「たにぐく」と訓読みする。ヒキガエルのことだ。そもそも「蟆」の一文字ですでにヒキガエルを意味しており、ここでは従って「谷や沢に棲まうヒキガエルに関する考察」とでも意訳すればいいだろうか。しかし、むろん著者が中西先生であるからには、本書は生物学に分類されるものではなく、古典文学研究(中でも記紀・万葉研究)に分類されることは、敢えて言うまでもない。

「人間とは立つものであり、他方で飛べないものである」という、古代日本における人間観の秀逸な考察が見られる。前者は爬虫類に対する優越あるいは虚勢であり、後者は鳥類に対する劣等あるいは羨望につながる。なるほど、確かに我々人類は立ちはしたが飛べはしなかった。「人間とは立つものである」とは、あのオイディプスが解いた「スフィンクスの謎」の答えでもある。「朝には四本足、昼には二本足、夕には三本足」――二本の足で立ち、杖をつく動物は、人間のほかにいない。だがしかし、鳥はと言えば、なんとも羨ましいことに、「昼には飛ぶ」のだ! そうした想いが記紀や万葉に見出されるというのだから、実におもしろい。

しかし、ちょっと冷静に考えてみれば、確かに飛べないのは誠に残念なことであるとは言うものの、他方で、飛べるようであったらきっと「杖」なんか作ることはできなかった。人は「羽」の代わりに「手」を獲得することで、「杖」を作る動物となったわけだ。むろん「杖」ばかりでなく、鍋も家も自動車も、そして飛行機までも作ってしまい、今や鳥よりも速く空を飛んでいる。進化というのはなにが幸いするかわからないものだ。そして優劣の決着は永遠につかない。

さて、本書は大きめの図書館なら置いてあると思うし、言うまでもなく大学の図書館には絶対になければいけないものなので、第Ⅰ部だけでも是非お読み頂けたらと思う。――もしあなたが大学生で、通っている大学の図書館に本書がないことを発見した際には、速やかに当局に対し抗議行動を起こすべきだろう。その結果どうなるかまでは知らないけど。

第Ⅰ部には「谷蟆考」「力なき蛙」「翼と足」「標章伝承」「川をさかのぼる」の5編が収められている。「標章伝承」では、我が国の「家紋」に多く見られる様々な「鳥」(八咫烏を筆頭にして)を取り上げる。また「川をさかのぼる」では、「川をさかのぼると異界に」出てしまうものであり、その異界からは時に「異類の者」が流れ下ってきて求婚されてしまうものだから、重々用心しなければいけない。――そんなおもしろい話と出会うことができる。

残念ながら本書は現在どうやら古書でしか入手できないようだ。が、千円ほどで手に入る。定価1,500円だった本なので、稀覯本扱いはされていない。僕の持っている本にもしっかり「1000」と記されているから、いつどこで買ったのか忘れてしまったけれど、これも古書である。ネットに書影が見つからないので、冒頭の写真はやむを得ず自分で撮った。ついでだからここにその「1000」も載せておく。(ちなみに僕のは第一刷です。うふふ。あ、増刷されてないだけかもしれないけど……)

画像2

新しい本がどれくらいの割合でデジタル出版されているのか知らないけれど、あの村上春樹さんですら(東野さんも宮部さんも同様に)、過去の代表作はひとつもkindleで買えないようなので、僕らはこの先もしばらくは古本屋さんのお世話になることになる。図書館で立ち読みするのではなく、やはり手元に古書をお求めになりたいという方は、たとえば「日本の古本屋」というサイト(https://www.kosho.or.jp/)を検索してみてください。「谷蟆考」で8冊出てきます。単行本なら6冊、いずれもやはり千円前後です(本日ただいま現在)。こちらのサイト、僕も愛用しております。(綾透)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?