私の百冊 #19 『アンチ・オイディプス』ドゥルーズ+ガタリ

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫) ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ https://www.amazon.co.jp/dp/4309462804/

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オイディプス王の物語は、言わずと知れた古代ギリシアの、しかも神話である。従って、そこに登場する親子(父・母・息子)は、古代ギリシャに生きた個別具体的な血縁関係者としてではなく、〈父・母・息子〉という関係性の象徴として描かれている。だから、フロイトはこれを持ってきた。

他方で、ドゥルーズ+ガタリは、〈父・母・息子〉という最も小さな近親者の物語を、様々な社会的関係に無理やり嵌め込んで解釈するやり方では、出来事の本質を見誤ることになると批判する。なにもかも「エディプス・コンプレックス」で読み解くのは乱暴にも程があるよ!と怒っている。

しかし、読んでみるとなんとなくわかるのだが、なんとなくしかわからないのはなにしろ難しいからなのだけれど、ドゥルーズ+ガタリは直接的にフロイトに対峙しているわけではないようなのである。二人の矛先は、どうやらフロイト派を標榜する精神分析家たちに向けられているらしいのだ。

問題は、フロイト派を標榜する精神分析家たちが、患者たちが持ち込む様々な出来事に対し、なにもかも「エディプス・コンプレックス」で説明してきたところにある。個別具体的に実在する家族(親子関係)内に於いても、息子は父親を殺そうとするのであり、母親と交わろうとするのであり、だから父親は息子を母親の前で去勢するのであり、すべてはそのヴァリエーションなのだと、まるでホームドラマを描くように語ってきたわけだ。

ドゥルーズ+ガタリが怒っているのは、このようなフロイト派を標榜する精神分析家たちの乱暴な診断に対してなのだと考えれば、それほど難しい話でもない。――いや、もちろん難しいには難しい。なんの話をしているのか、僕にはさっぱりわからない箇所がたくさんある。なんでこんな本が我が国でベストセラーになったのか理解に苦しむ。買った人間と読んだ人間の数を調べれば、実はけっこう大きな乖離があるのではないか?と疑いたくなる。

とはいえ、どうも構図としてはそのような話であるらしいと思いながら、わからないところは適当に流しつつ、折りにつけ手に取って読んでいると、なんとなくわかってくる気がする。ドゥルーズ+ガタリは、「オイディプス王の物語は神話なんですよ? 実際に父親を殺し母親と交わった息子がいたとか、そういう話ではないんですよ?」と言っている。他方で精神分析家たちは、「無意識の領域に於いては、実際に息子は父を殺し母と交わっており、それが人間なるものを形成していくのだ」と、まるで信仰のように唱えている。――と、ドゥルーズ+ガタリは指摘(あるいは揶揄)するわけだ。

実際のところ、西洋の精神分析家たちが本当にそんなことをやってきたのかどうか、僕は知らない。そもそも遺伝子レベルの話としては、有性生殖をする生き物が近親交配を回避すべく進化してきたことは、よく知られている。人間も、遺伝型が近い人間を「臭い」と感じるように出来ている。中学生くらいの女の子が父親を「臭い!」と言い、「近づかないで!」どころか、「一緒に洗濯しないで!」とまで叫ぶのは、そのせいである。だが、ここは娘を持つ父親の悲哀を論じる場面ではない。

もし本当に、西洋の精神分析家たちが、本当になにもかも「エディプス・コンプレックス」でもって診断(そして治療?)してきたという話であれば、それはまあ確かに問題ありそうだよな…と素人ながらに思わないでもない。確かに脳は、遺伝子を第一の情報系とするならば、第二の情報系として、どうやら人間にしか見られない振る舞いを、遺伝子の意向を無視する形で、発達させてきたように思える。しかしその基底プログラムが「エディプス・コンプレックス」なのだと聞かされたら、少なくとも僕は目を白黒させてしまうだろう。むろんそいつは「無意識」に於いて作用するわけだから、僕自身が知らないうちに、勝手にそう振る舞ってしまっていると説明されるわけで、目を白黒させるのは当然だと言われてしまうのだけれど。

無意識というやつは、いわゆる本能とは違う。本能のほうは、言ってしまえば遺伝子に従っている、第一の情報系のことだ。しかし無意識はあくまでも脳の一部であり、しかし意識上に現れてこない機序を指す。想像するに、意識上であれこれ「考える」ことには膨大なエネルギーが必要で、酷く疲れるものだから、脳は無意識なるものを拵えて、どうしても「考える」必要のあるもの以外は、そこに委ねることにしたのだろう。

そして、やがて我々が「自我」なるものを発見してしまった際、同時に、「無意識」も発見してしまうことになる。ところが、そいつがどんなルールで働いているのか、脳がどのような理屈でそいつを拵えたのか、どうにも見えない。「無意識」が在るのはなんとなく感じるのだが、そいつがなにをやっているのか、よくわからない。しかも、どうやらそいつに振り回されるような事態も起きているようであり、それではいかにも落ち着かない。なんとか説明できないものか。そんな感じなのである。

たとえばスマートフォンをぼんやり眺めているとき、僕らは恐らく「無意識」にその情報処理を委ねてしまっている。なにしろ物凄い情報量だし、それも矢継ぎ早に送り付けてくるし、それに大半がどうでもいい話でもあるので、面倒臭いからもうそれでいいや、と思っている。委ねられた「無意識」がなにをやっているかは、しかし、よくわからない。思わずおかしなツイートをリツイートしてしまっていたりするのも、そのせいかもしれない。もしかすると、本当に「エディプス・コンプレックス」みたいな基底プログラムが働いているのかもしれない。とりあえず「無意識」の働きの幾ばくかは、「エディプス・コンプレックス」で説明できる部分もあるのだろう。

人間の「意識」と「無意識」と、あるいは遺伝子という第一の情報系と脳という第二の情報系と、そんなことをつらつら考えるには、本書はそれなりに刺激的ではある。ときどきドゥルーズ+ガタリが、フロイト派をおちょくるような口ぶりになったりするところも、面白味の一部だ。思想とか文学とか、この辺の分野の本は、著者がなにを言わんとしているかを理解できるかどうかは、まあ二の次にしていい(と勝手に決めている)。読みながら、僕らにあれこれと考える契機を与えてくれる本を、良書と呼ぶのだ。(綾透)

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