私の百冊 #06 『百年の孤独』ガルシア=マルケス

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez) ガブリエル ガルシア=マルケス https://www.amazon.co.jp/dp/4105090119/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_xVlNFbQZTW4V9 @amazonJPより

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決してマルケスが僕らを困らせるために嫌がらせをしたわけではなく、たぶんスペイン語圏の命名の慣習に致命的な問題があるせいで、七世代にわたる物語の中に、「アルカディオ」が5人、「アウレリャノ」が6人、次々と登場してくる。従って、これから本書を手に取ってみようかと考えている方には、なによりもまず、決して数日内に一気読みしないよう、ご忠告申し上げておきたい。どの世代の「アルカディオ」なのか、誰の父・息子の「アウレリャノ」なのか、あっという間にこんがらがってきてしまうからだ。少しずつ、時間をかけて、それこそ七世代分の時間の流れの厚みを感じつつ、読み進められることをお薦めします。

とは言うものの、実は、どの世代の「アルカディオ」であろうが、誰の父・息子の「アウレリャノ」であろうが、さほど問題にならないという不思議な物語でもある。一括りに、「ブエンディア家の男」「ブエンディア家の女」と理解しておいても、難なく読み進められたりするのだ。僕は二度この本を読んでいるのだけれど、正直なところ一回目はそんな感じだった。それで全然まったく困らなかった。

たとえば小さな子供に対するときは、おまえのおじいさまのアルカディオはね…と語ればよく、年寄りに対するときは、あなたの孫のアウレリャノがね…と語ればいい。あるいは世代など取っ払ってしまい、「大佐のアウレリャノ」とか「法王見習いのアルカディオ」とか呼んでおけばいい。それが厳密には祖父なのか曾祖父なのか、あるいは孫なのか曾孫なのかなんて、実に些末な事柄に過ぎないのだ。

しかしこれは、決して「ブエンディア家」に特有の話でもないような気がする。僕の母方の祖父は寺院を専門とする宮大工だったのだけれど、祖父が眠るお寺の本堂から家屋につながる渡り廊下とそこから見渡せる庭を造ったのは「おまえの父親の母親の父親」なんだとか、そんな七面倒臭い説明を僕は自分の子供にはしない。四世代も前になってしまえば、「宮大工だった○○爺さん」でいい。それで全然まったく構わない。

マルケスの描く物語の豊饒さは、それこそ冒頭に「無常」を唱えておきながらも実に活き活きとした「生」を縦横に描いてみせる『平家物語』と同様に、幾人もの「アルカディオ」と幾人もの「アウレリャノ」の、それぞれにぶっ飛んだ「生」を分厚く積み上げて行く。僕らは、時にじめじめと重たく湿り、時にからからに乾き切った、この「ブエンディア家」の空気に浸り、まるでその中を同時に生きてしまったかのような、確かに「あのアルカディオ」も「あのアウレリャノ」もよく知っているような、そんな不思議な感覚に捉えられる。

だから、本書はさらりとページをめくってはいけない。くれぐれも斜め読みなんてしてはいけない。先へ先へと読み進めること、そして結末まで読み終えることは、ご存じのように、物語の本質ではないのである。それは僕らの「生」と同じなのだ。たとえばこの、もしかすると例年より休みが長くなるかもしれないと噂されている年末年始の、静かで長い冬の夜などに本書を手に取ってみるとか。三週間、二十日間で500ページ――うん、それくらいの感じで、舐めるように読むといいかもしれない。「ブエンディア家」の奇想天外な百年に、どっぷりと浸かってみてはいかがでしょう?(綾透)

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