私の百冊 #16 "The Catcher in the Rye" J.D.Salinger

『ライ麦畑でつかまえて』(白水Uブックス)J.D.サリンジャー(野崎孝訳)https://www.amazon.co.jp/dp/4560070512/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_kuKZFb2WXZ0YM @amazonJPより

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(ペーパーバック・エディション)J.D. サリンジャー(村上春樹訳)https://www.amazon.co.jp/dp/4560090009/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_svKZFbCVKNBW5 @amazonJPより

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書影は僕の本棚にある単行本だが、野崎訳も村上訳も、単行本はすでに古書でしか手に入らないようなので、Amazonのリンクは購入できるやつにしておいた。とは言え、いま僕のこの文章を読んでいるような(ある意味)酔狂な人で、本書を未読であるような人はいないだろうけれど。

ご存じのように、"Catcher"というのは、文字通り「捕る人」である。本文を読めば、そうであることが明らかになる。そして、主人公・ホールデンが言っているのは、どうやら「球拾い」みたいなやつらしい。ベースボールという球技に於いて、バッティング練習の際に、外野手の後ろや左右のファールグラウンドなんかで、ボールが道路に転がり出たり溝に転がり落ちたりすることのないように人を配置する、例のあれである。「捕手」と和訳される正規のポジションのことではない。※この辺り、本書がアメリカ文学であることを念頭に置いておく必要があるだろう。もしイギリスが舞台であれば、ここは「球拾い」ではなく「ボールボーイ」になると思われる。

そしてあれ(「球拾い」のことである)が、部活動に於いてはもっぱら新入部員の役割とされていることは、皆さんご存じの通りであろう。他方で、河川敷でやっている少年野球なんかでは、指導者ではない生徒の父親などが、おそらくボランティアで、それをやっていたりもする。――そう、ホールデンもまたボランティアとして、つまりは無償の自発的行為として、そのような役回りを担いたいと言っているように聞こえるのだが、しかしこれこそが、それってなに?と、まさに首を捻ってしまうところなのだ。

この際もうはっきり言ってしまうけれど、僕にはどうしてもホールデンの言ってること・やってることが、うまく理解できない。出版社の売り文句によると、「大げさに言えば読んだ人間の一生の友になるような本」だということなのだが……うむ、かなり大げさに言っているだろう。野崎訳で読んでも、村上訳で読んでも、原文をペーパーバックで読んでも、残念なことに僕は、ホールデンと友達になりたいとは微塵も思わなかった。あんな厄介な人間を、自分の生活圏に抱え込みたくない。※とは言え、僕も「友達」になりたいと思ったからこそ、野崎訳のあと原文を読み、のちに村上訳も読んだのだけれど。

本書は世界中で途轍もない部数が未だに(1951年以来)売れ続けている(らしい)歴史的な作品である。本書に共感できなかったと口にすることは、大げさに言ってみれば、『レ・ミゼラブル』や『カラマーゾフの兄弟』を読んだ際に、感動も感心もしなかったと吐露する状況に近いというわけだ。つまり、人前ではちょっと言い難い。2020年秋の日本で言えば、『鬼滅の刃(無限列車編)』がちっとも面白くなかったと口にするようなものだろう。つまり、ちょっと勇気が要る。

だから、もしあなたが万が一まだ本書を読んでいないとするならば、その辺りの事情を重々承知したうえで手に取る必要がある。ホールデンに共感できなかった際に、「おもしろくなかった」と言ってしまうか、「まだ読んでいない」と偽るか――その判断如何によって、あなたの一生の立ち位置が決定づけられてしまうかもしれないからだ。(ちなみに『鬼滅の刃』について言えば、僕はまだ観ていないので、現状この難を免れている)

ところで、村上訳が出たのは2003年であるから、2003年以前に高校生だった僕は、野崎訳で初めて本書を読んだ。いま僕のこの文章を読んでいる三十代後半以上の人たちは、すべからくそうであろう。すなわち、"The Catcher in the Rye" は『ライ麦畑でつかまえて』だったわけだ。

ここで、畏れ多くも野崎先生に少しばかり恨み言らしきことを言ってしまうけれど――邦題が『ライ麦畑でつかまえて』なら、原題はきっと "Please Catch me in the Rye!" に違いないと、多くの日本人読者は思った。日本人の多くは(僕もそうだけど)「ライ麦畑」なんて見たこともないので、きっと「田んぼ」なんかよりずっと素敵な景色が広がっているに違いないと思った。きっとそこは、思わず「つかまえてほしい!」なんて口走ってしまうほど、いくらかロマンチックな風景でもあるのだろうと思った。――が、全然違った。まさか、ライ麦畑で「球拾い」みたいなことをやりたいなんて言い出す能天気な男の話だとは、露とも思わなかった。

これは野崎先生の罪である。村上氏は賢明にも(あるいは敢えて言わせていただくなら狡猾にも)、"Catcher" を日本語にしなかった。僕は今ここで大胆に予言してみたい。――『ライ麦畑でつかまえて』が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に置き換わってしまったあと、世界でも日本でだけ、なぜか本書の売り上げの伸びがわずかに鈍化するに違いない。うっかり間違って手に取ってしまう純朴な若者が減るからである。(綾透)

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