右折の恋人

作業所での1日の仕事を終え、送迎用のリフトカーに車椅子ごと乗り込んだY君の隣の補助席に腰かけた私は、携帯型の酸素マスクをつけたY君の顔を見上げることになるこの高さから、今日は何を話そうかと緊張していた。

Y君は筋ジストロフィーの持病を持っている。無口でいつも何を考えているかよくわからないY君の送迎の当番がまわってくるたびに、今夜の夕飯の献立に悩むような、密かにそんな気分になった。

走行中の揺れと転倒防止のため、Y君の座る特殊仕様の電動車椅子の車輪を専用ベルトできつく締め上げる。
「はい安全確認オッケーです」
「では出発しまあす」
運転手の田辺が昭和歌謡を口ずさみながら慎重に車を前進させる。タイヤが砂利を擦り、砂埃が舞う。

身体障がい者たちの働くその作業所は、あてが外れて売れ残った広大な分譲住宅地の商業開発地区にぽつん、と建っていた。所長は「県内最大級の総合福祉施設をすぐにでも着工する」と口癖のように言っているが、資金調達の目処が立たず、いつまで経っても仮設のプレハブのままで、今年の冬は特に底冷えした。

作業所の敷地から道路に出る。
枯れススキの生い茂る空き地に挟まれたゆるやかな下り坂が続く。不自然に整備の行き届いた道が、殺伐とした風景の中で際立っている。
やがて、ニュータウンの外れまで来ると大きなT字路にぶつかり、右へ曲がると海岸線へ向かう細い裏道へ抜ける。Y君の身体に負荷がかからないよう、田辺は極力速度を落としながらゆっくりと右にハンドルをまわした。景色が一転し、年中日の差さない雑木林の深緑と不法投棄のゴミばかりが目に入る。水気を失った田んぼが春を待っている。
「すいません、身体が、曲がって、きたので、左腕を、右に押して、もらえますか」
Y君の身体が左に傾き始めていた。私はY君の左腕を掴み、肘を肘かけの内側にぐっと押し入れた。
「どうですか?」
「はい、いい、です」
大きな身体の上に、地蔵のような涼やかな顔がちょこんと乗っている。Y君は歳の割りに幼く見える。
「そういえば昔、アイスクライマーっていうゲームありましたよね」
「ありました、ね」Y君が相槌を打った。
「あれ、私好きだったんです。地面が氷でつるつる滑るんですよね。熊が出てきませんでした?」
「出てきます。ロードランナーとか、僕も、結構、やってましたよ」

海岸線を走る。海は松の防風林に隠れている。
その後も私たちは熱心にファミコンの話をした。喉の筋力が弱っているうえ酸素マスクをつけているY君の言葉はこもって聞き取りにくいため、いちいち聞き返すのがおっくうで、悪いなと思いながらも話を聞いているふりをして、なんとなく会話をつなげる癖がついてしまった。しかし、ファミコンから幼少期の話題に移ったあたりから、私はいつの間にかY君の初めて話す身の上話にすっかり聞き入っていた。

大休憩の時間に校庭で遊んでいたら急に意識を失い、何度かバタッと倒れたりするようになったのが病気の始まりだったとY君は言った。病気はどんどん悪くなり、やがて歩けなくなった。普通の学校には通えず、養護学校に行くことになった。卒業後は行くところがなく、しばらく家にいた。施設に通ったりやめたりした。そして今の作業所に通うようになった。早く病気の原因と治療法が解明されればいいけど今風邪なんかひいて肺炎になったら完全にアウトです。肺炎がいちばん怖いです……。あ、足の装具ですか?これは足の変形や筋肉の拘縮が起きないように補助するためにつけてるんです……
{今朝の新聞に筋ジスの原因の遺伝子が発見されたって書いてありましたよ}
{ありましたね。でも研究成果だけで治療法は結局見つかってないです。いつもそうなんです}
{治療法が見つかるまでなんとかがんばって生き伸びていてほしいですよ。薬1錠で治る日が唐突に来るかも知れない}
{そうかも知れないですね}

Y君はいつになくよく話した。自分がこんな病気になったせいで家族にも迷惑をかけ申し訳なく思っている、とY君は言った。
「Y君は作業所にとって大事な存在で、Y君が作業所にいてくれるだけでありがたいし、みんなの癒しになっているんですよ…………」私も饒舌だった。自分でも白々しいと感じるほどに。
「癒し、ですか。へえ、僕ってそう、なんですか」Y君は無表情だったが照れているように見えた。

海沿いのトンネルに入った。この辺りの海岸はささやかな観光地になっていて、夏は県外からの海水浴客で賑わうのだが、地元民にとって明るいイメージはあまりない。海岸での焼身自殺、入水自殺、親子心中を伝える記事が時々地元の夕刊に小さく載る。
車は短いトンネルをあっという間に抜けた。目の前に海が開ける。
「Y君、見てください。すごい、どうしたんだろう、今日の海、エメラルドグリーンですよ。南国の海みたいですよね」
「本当だ。今日はずいぶん綺麗、ですね」

赤いジャージの上下を着たY君の下半身と、酸素マスクから伸びる管が、補助席に座る私の視界の間近に入ってくる。四肢の筋力はほとんどない。青年特有の欲望を、Y君はどうしているのだろう?あきらめ、放置されたそれは静かにそこにある。私の胸がざわめく。なんの罪もないのに終身刑のごとく行き場もないまま狂おしく渦を巻いているそれ。わずかな誤作動で大爆発を引き起こしかねないそれ。あんまりではないか…………。私は、妄想の中で、Y君の酸素マスクを外した。強く長く抱き締めてから、唇の奥の、舌を探し、隅から隅までじっくりと触れ……それから、それから、敏感な場所を剥き出しにして、私はY君を見つめてにっこりと微笑み、それから、それから……。Y君の内々に溜まっていた澱が、透明な海の青に放たれ白い筋になって流れていく風景を、私はいくらかの自己嫌悪とともにY君の身体越しに眺めていた。Y君は相変わらず地蔵か仏像のようにすっきりとした表情をしている。

「Y君も海を見てほっとしたりしますか?」
「そうですね。小さい頃から海のそばで暮らしてきたんで、海を見ると『いいなぁ』って思いますね」

車は海岸線沿いの古い民宿の角から一つ裏の通りに入り、間もなくY君の家の前で停車した。Y君の家は古い漁師町の住宅特有の、あちこちに丁寧な左官の細工が施された、築年数の長い大きな家だ。敷地には井戸や祠や離れもある。

田辺と私はY君の乗った電動車椅子をリフトで路上に降ろし、玄関先まで誘導した。茶の間で洗濯物を畳んでいたY君のおばあちゃんが膝を交互に擦りながら出てきた。足が悪く立てないのだ。
「おがえりなさい。いっづもありがとうございます」おばあちゃんは深々と頭を下げた。田辺と私はY君の車椅子を奥の部屋まで押した。
Y君の部屋は最新のテレビゲームのソフトやゲーム雑誌であふれていた。田辺と2人がかりでY君の身体を車椅子から持ち上げる。
全身の筋力を失ったY君の、セラミック製の装具のついた両足は、見た目以上にずっしりと重く感じる。田辺が酸素マスク一式をベッド脇の機械に繋ぎ直す。在宅ヘルパーが夕方の介助に入るまでの1時間を、Y君は部屋で1人で過ごすことになる。
「今週も1週間お疲れ様でした。ではまた月曜に作業所でお会いしましょう」
「お疲れ様でした」と、Y君も言った。介助記録を記帳する田辺を残し、私は部屋を出た。

おばあちゃんがわざわざ私を見送りに玄関先まで出てきてくれた。「いづもYがお世話をおがけして本当にすみません、ありがとうございました」
「いえいえこちらこそお世話になっています。ではまた来週、伺いますね」私はおばあちゃんにあいさつをし、足早に玄関を出て、停車していた車の助手席に乗った。遅れて出てきた田辺が運転席に乗り込みエンジンをかけた。

「なんだかさぁ俺、今日は山側から帰ってみたいんだよな、いい?」
いつもなら、さっき通ってきた海岸沿いのまっすぐな道を30分ほど走って作業所に戻る。深く考えず私は「いいですよ」と頷いた。車は小さな名もない山をひとつ登って、すぐに下った。下った先の十字路で、私たちはとりとめもない世間話をして信号が青になるのを待った。

「風が強いな」
「電線がすごく揺れてますね」
スズメの群れが一斉に飛び立った。
「あ、これ、地震か?」
「きゃあ!電信柱が倒れる!」
「大きい……!俺は、俺は仙台で宮城県沖地震を体験してるからわかる。これは……かなり大変なことになるぞ」

天地がひっくり返るような揺れは思った以上に長く続いた。
心臓の鼓動が静まらない。
身体がまだ震えている。

海の方角を眺めた。帯状の土煙が上がり、空全体がうっすらと黄色く濁っている。
「津波が来るかも知れない」田辺が呟いた。
「えっ?まさか……。Y君!今からY君の家に戻って、助けに、行きますか……」
「駄目だ、危ない。ここから逃げよう」
田辺は可能な限りのスピードを出して陸方面へ車を走らせた。「Y君の家に戻りましょう」という言葉が以後、私の口から出ることはなかった。一生消えそうにない何かが絶望的にのしかかったのを感じたが、私はそれに気づかないふりをした。
険しい顔で田辺はハンドルを握りしめている。道路のあちこちで水道管が破裂し、噴水のように路上に水が吹き出している。塀が崩れ、アスファルトに亀裂が走り、瓦が散乱した道を、車はぬうように走る。

どうにか作業所に到着すると、所長と事務員以外は皆早々に帰宅していた。作業所の建物は幸い目立った損傷はなく、ファイルやセロテープなどこまごまとした備品が室内の床に落ちている程度だった。
作業室の机の上は、仕上げ途中の造花の山がそのままになっていたが、整理整頓好きな田辺が珍しく片付ける素振りも見せず、テレビのリモコンを握りしめ、報道特別番組をじっと見つめている。私はその造花を五種類に色分けしてテーブルの上に並べた。あまり意味のない作業だった。なんとなく帰る気にはなれなかった。そしていくらかの時間が過ぎた。

スリッパの音がパタパタと大きくなる。事務員の土田が作業室に入ってきた。
「Y君とおばあちゃん、津波に流されたみたいなの!」
あっ……。
「15時半すぎに介助に入る予定だった和田さんが、Y君の家と連絡が取れなくて心配になってちょっと見に行ってみたんだって。そしたら、そしたら家が、骨組みしかなかったって……。周辺の瓦礫がすごくて家に近づける状態じゃなかったって……」土田が涙目でうなだれる。

「骨組みしかないって……」全身の力が抜けた。
「2人を、見殺しに、してしまった」
「違うだろ」田辺が遮るように言った。「俺たちが生き残った、んだ」

テレビのキャスターがヒステリックに同じ言葉を繰り返す。……余震が続いています……今後、第二波、第三波が到達するおそれもあります。絶対に海岸に近づかないでください……
「田辺さん、私たち、ヒーロー、ヒロインにはなれませんでしたね」
田辺は答えなかった。

大津波警報を知らせる日本地図が、テレビ画面の隅でせわしなく点滅している。津波が茶色い土砂の塊になって、ところどころ火を噴きながら陸地の田んぼや家や車を飲み込んでいく様子が専門家の解説付きで淡々と映し出されている。
「田辺さんに聞きたいことがあります」
「何?」
「どうして今日に限って山側の道を選んだんですか」
田辺は表情を変えず私を見た。
「アイスが食べたかったからだよ。あの山のふもとの十字路んとこにセブンイレブンあるだろ?あそこでチョコミントのアイスを買いたかったんだ。あんたにも奢るつもりだったのにな」

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ayatopia

こたつとみかんの国から

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