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『ザ・ワールド 2019』大橋可也直前インタビュー(後半)

【人数と音楽と空間】

綾門 長い尺であることにも関連することかなと思うんですけど、前回拝見した新作、市川春子『宝石の国』を下敷きとした『The Lustrous』※ の出演者は2人だったわけなんですが、今回はかなりの大人数。といっても私が今日拝見した稽古は全員出てるところじゃなかったので詳細はわからないんですけど。やっぱり多くの人数が関わることによって、ダンスの中で生まれていく関係性って、戯曲の登場人物だと人間関係が複雑になる、みたいなことだったりするわけですけど、そういうわけでは必ずしもない形で複雑になるってことまでは分かるんです。ただそれをうまく言語化できていなくて。『The Lustrous』はわかりやすくて、金剛先生と宝石たちとの関係性に焦点が絞られていたわけで、ダンスを見慣れていなくても関係性の変化をある程度は追えるわけなんですが、今日だけでもカオス。。。みたいな時が頻繁にあって、それをどう整理しているのか、どう関係性を変質させていってるのか、ということを伺えればと思います。

※2019年3月にメキシコで初演した作品。綾門は東京での試演会を鑑賞した。

大橋 ふたつの観点があると思います。ひとつは作品の中で、という観点。今回はある程度の人数が必要だと最初から思っていて、冒頭から話が出たズレ、というか揺らぎについてなんですが、揺らぎを作品に導入するにあたっては、それなりの人数が必要でした。その中でも整理はしています。第1部はいま女性しか出ていなくて、第2部は男性も女性もいるわけですけど、構成的に組み合わせを意図的に変えてるんですね。それをやるには単純に人の多さが必要なので。ただどうしてもダンスの場合だと女性が多くなりがちなので、もう少し男女比が近い方がいいかなとは思うんですけど。まあでも基本的にはあるがままを僕は受け入れるので。今回は男が何人じゃなきゃダメとか、あらかじめ考えないようにして、いまいる人、いまあるものでやろう、と。作品を作る過程でどうしても新しい人が多い座組だと、経験のある人でも、身体的な意味でもそうだし、言葉の理解がなかなか追いつかないことも多いんですが。以前から作品を作っている後藤ゆうとかと比べると、理解だったりスピードだったりがちょっと遅いこともありますし、身体的に表すのが難しいのかな、って思うことは正直あります。ただその人たちが加わることによって我々も言葉を尽くすし、体のありかたはどうしてこうなのか、というところを探求するきっかけにもなるので、そこは我々にとっても、全体の進化に大事なことなのかなと思ってます。

綾門 今回、すごく音楽が…あれだけずっと、いろんなパターンの楽曲が鳴っていたのが印象的で。本来二人ですよね。涌井さんと鼓次郎さん。そのお二人の音楽が、っていっても今日の稽古では鼓次郎さんの楽曲しか鳴っていなかったので、そこに更に涌井さんの楽曲が入ってくると思うと…。部で分けてるってことですか?

大橋 第1部と第4部は二人の音源が使用されることになると思います。ライブセッションみたいなところもあるし、音源は音源で、というところもあるし。基本的にはそれぞれが作ってきた音源。ライブでどう入れる? とかそういうのはまだ考えますが、それぞれがこういう音を作って、という連携のある関係になっているとは思います。

綾門 稽古を拝見していて、音楽の有無で記憶の喚起が左右されるところもあるな、と。例えば音楽がない時の方が、個人的には動きのみを集中してみるから、それによって記憶を豊かに喚起することが多くて、音楽があると、その音楽の持っている強烈なイメージに誘導されることで出来上がる空間があって、そこにある意味で縛られるところがあったんです。それによって、こういうふうにみます、みたいに、観客の中では理解されるかもしれない。それで記憶の喚起の度合いみたいなものが、結構上下しながらみていたなっていう実感があって、それは意図的にやっているのか、もしくは演劇をみるような脳でみているからそう感じてしまうのか、私自身では判断がつかなくて。

大橋 今日の稽古だと、テクニカルをいま詰めているところなので、僕も鼓次郎くんも手探りでやってるところがあるから。もっと無音のところも必要だと思うし、ボリューム的にもさげるところはさげる必要があると思う。抽象度の問題ですよね。そこは音色とかも含めて、これからですね。今の指摘はその通りだと思うので。一定方向に導くところは導くところであってもいいんですが。一方向に寄りすぎないように、注意はしなきゃならないのかなあ、と。

綾門 『宝石の国』が下敷きとしてあらかじめ存在していた前回の作品だと、あの場所、あのシーン、みたいな感じで、音楽がそれを示す関係にあったので、その時の関係とは別だなあ、と。あのシーン、っていうものを狙って立ち上げるのと違って、今回は恐らく観客自身がみずからの記憶を立ち上げる必要がある。それは行為として全然違う。そこが前回との比較だと特に感じられた部分だったので、伺っておきたかったことでした。

【実際の場所、影の人たち】

綾門 私はまだ上演される実際の場所にいっていなくて。資料は拝見したんですけど。実際の場所に入ってみて、どれぐらいイメージが変わるのか、具体的に想像出来ていません。すでにキャスト、スタッフ全員で何度も下見みたいなことはしているんですか?

大橋 全員ってわけでもないんですけど、2回ぐらいはいってます。

綾門 実際に入ってみて、メリットとデメリット、どちらでもいいんですが、どう感じられましたか? いつもとどれぐらい違って、どれぐらい見え方が変わるのか。伺えますとありがたいです。

大橋 難しいといえば難しいですね。どうとでもなる空間なので。ただ、いまはもう構成がかたまってきたのでそれに合わせて作っていて、特に困難はあまりない段階に入ってますけど。提示の仕方としてはそうですね…最初はもっとがらんとした大きな空間で考えていたんですが、部屋がいくつか分かれてる空間なので、それに合わせた作品作りにいまはシフトしていて、むしろそれはそれで楽しいかな、っていう気がしてきました。そこにあるものが好きになる方なので。目の前のものが。だから、あまり理想がないんですよ。

綾門 自分の脳にある理想を作品化するんじゃなくって、まず世界にあらかじめ存在しているものがあって、それをみて影響される、っていう順序ですね。この世界に元々あるものは理想なわけがないから、それを受け入れてやっていく。私は多分理想押し付けタイプで、私の目の前にあるものと戯曲は特に関係ないんですけど。こういうの、ガン、って塊のイメージを置くタイプです。

大橋 劇作家ってみんなそうなんじゃないんですか。

綾門 いやでも俳優にあて書きで書くタイプの方って一定数いますよ。そういう方だと俳優によって書くセリフが変わってしまうので。そのタイプでは全くないなという感じです。余談ですが…。今回、揺らぎを中心テーマに扱ったっていう話で印象的なのは、同じ振付とかテキストとかから立ち上げているからこそ逆にわかるそれぞれの個性みたいなこと。同じ指示が出ているはずなのにこう動いちゃうのか、とか。前の人がやった後に遅れてやる、っていうのが結構多いじゃないですか。それによって、それぞれ手の動かし方の癖であるとか、どういう存在感を放っているかっていうことが、より明瞭にわかるみたいな感覚がある。別々の振付だと比較のしようがないですが、ここまで近似していると逆にその差が際立つなあ、みたいなことが起きていたように思う。それが、世界、ってことなんですかね? 同じことをしていても、必ず同じようにはならない、ってことが。っていっても『ザ・ワールド』っていうタイトルが、そもそも今回つけたわけじゃなくて前からあるわけだから、その解釈も行き過ぎなんですけど。タイトルからの質問ですが、大橋さんの世界の捉え方って、今回の作品に影響してますか?

大橋 どうなんだろう、元々ある世界を再構成する、描き直すって感じなのかなあ…。やってることは、みんな同じことなわけじゃないですか。それぞれが少しずつ違うよ、ぐらいのことを少しだけ凝縮してやってる。ああ、こないだ飛行機の中で映画を観たんですよ。アメリカ映画で『アス』っていう。黒人の女性の、そっくりな人が出てきて突然襲われる、予告編みるとサイコホラーなんですけど。だんだん実は世界は、みたいな説明が入ってきて。その人の影、人工的に作られた影になる人たちが、表の世界とは別に生活しているということが明かされるんですね。影の人たちは、表の人たちの裏返しというか、ほぼ似たようなことをやってるんです。表の人たちが家族で遊園地に行って色々楽しむと、影の人たちは、それこそ今日の稽古場みたいな何も無いところで、何も手にはしてない状態で、ドリンクを飲んだり、喋ったりとかを、ただしている。僕の振付でみたなって感じなんですけど笑。表の世界を投影してみることで、影の世界がよりわかりやすくなる、我々がどういう振る舞いをしているのか捉えやすくなる。例えてみれば、そういう関係性にあるのかな、と思っています。

綾門 もうひとつ、伺ってもよろしいでしょうか?世界と大橋さんの関係性もありますが、世界と観客の関係性もあって、ただあるものを受け入れることでしか、観客は世界と関係を結べないんですね。元々世界にあるものから作品を作ったとしてもイメージから生まれたとしても、観客はどちらか分からないわけだから、常にそこで起きている現象を受け入れるしかない状態にあると思うんです。そういう意味では今回は、そこが逆転していて、観客が理想的な記憶を立ち上がらせて、目の前で行われているパフォーマンスに投影する。ただあるものを受け入れるっていう形でしか世界と関われないんじゃなくって、それぞれの観客の理想的な記憶をパフォーマンスにぶつけることによって、新しい世界が各々に広がっていく。アーティストがイメージを観客に、一方的にぶつけるわけでは必ずしもなく、そこには能動的な関係性を持ち込む必要が観客にはあるのが大変だけど面白いなってふと思いました。

大橋 そこはそうかもしれないですね。観客に預けるというか、主体になるのかな。

綾門 これちなみに初日と二日目って、同じことになるのかなっていう疑問があって、もちろん常に舞台作品なんて同じことにならないわけですけど、とはいえ今回5時間超あって、僕は初日しかちょっと仕事の都合で見られないんですけど、初日と二日目で違うことが起こりそうな予感がしていて。通常客席でもなさそうな気がするし、観客によって初日と二日目では違う現象が起こるんだろうなと。

大橋 観客によるものが大きいでしょうね。特に第4部は観客側がみずから歩いて居場所を探してみるというスタイルなので、どう観客がその場で振る舞うか、ということを含めて今回の『ザ・ワールド 2019』は完成するのかなと思います。

綾門 最後に、話してないこと、どうしても僕が稽古場でみたものから質問を考えて話していったので、触れていないことの中で話しておきたいことがあれば伺いたいです。

大橋 今回でダンサーズは20年やっていて、新しいダンサーも昔からいるダンサーもその中にはいて、あくまでこれも進化の過程にあるっていう話をしたんですけど、スタッフワークもそうで、音楽の二人もそうだし、例えば吉開さんもはじめに会った時は大学1年生とかですけど、今回こういう形でまた出会い、関わることになって、今回我々が過ごしてきた時間、リサーチだったり稽古ももちろんそうなんだけど、それ以外のこれまでの時間もすべて含めての『ザ・ワールド 2019』になると思うし、それを観客が観客の振る舞いも含めて一緒に体験するということ。単に作品と観客というだけではないんじゃないかなあと思っています。そうだ、観客との関係性でいうと、外でやる、フラッシュモブみたいな、大道芸的なこともそうなんですが、それは昔から違和感があって、僕のやりたいことと対極にあるなと思っていて。完全に異質なものとして世界に現れるものですよね。そうではなくて、より近いものとして関係性を作りたいんですね。観客に振る舞ってもらいたいとさえ思うけど、観客に近い存在に我々はなれるのかっていうことも、ひとつのテーマかなと思っています。

綾門 まあF/Tモブに参加してた過去が私はありますので笑、それを否定するわけじゃないんですけど、三浦康嗣チームで突然合唱する、みたいなことを何度か繰り返して思ったのは、あれは単純に世界を無視するようにあらかじめできているもので。別にフラッシュモブがあったことによって風景が変わってみえる、みたいなことは全然なくて。ある種の世界への楽しいテロだと思うんですが、やっぱり大橋さんと対極にある表現なんだろうとは思います。なんだろう、『ザ・ワールド 2019』を観終わったあとに、世界への解像度があがればいいなと思うんですよね。

大橋 いい表現ですね。ぜひキャッチコピーにしましょう笑。解像度をあげてもらえるように、頑張ります。あ、長島さん。

長島確 はい。

綾門 何かもし追加する質問がございましたら、最後になにか。

長島 いや、ないです笑。それぞれいい質問だったと思いますよ。うーん、じゃあ、ちょっとだけ。聞いてて思ったことで言うと、リサーチャーとの関係で、大橋さんがおっしゃっていたことは、違う言い方をすると、より複合的なコラボレーションの仕方を、どうやってつくるかという模索だったんじゃないかと。今回、僕は稽古場にあまり伺えてないんですが、様子を伺ってる限り相当いろんな人たちが活躍していて。その充実してきてる感じが、下請け作業ではなく、能動的なコラボレーションを出来ているように見受けられました。

大橋 これまでやってきたこともあってのことなので。ようやく、やりたかったことに近づいてきました。

長島 時間かかったなー、とは思いますが笑。

綾門 本日はありがとうございました、これで本日の収録を終えたいと思います。

大橋 ありがとうございました。

長島 ありがとうございました。


大橋可也&ダンサーズ【ザ・ワールド2019】
公演詳細
http://dancehardcore.com/topics_theworld_2019.html


〈チケット予約はこちらから〉
7/27(土)14:00
7/28(日)14:00
http://dancehardcore.com/tickets_theworld_2019.html

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