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女性的ということ、男性的ということ。

演出の櫻井さんと、よくお互いの価値観について話し合う。

今日は、僕が不意につかった女性作家、という言葉の使い方がいかがなものか、という櫻井さんの指摘から、いくつかの話をした。

ところで僕は「女性作家かと思いました」と、言われがちな劇作家だ。
直近では先月、『非公式な恋人』という作品の上演で、大阪の観客に直接言われた。
せんだい短編戯曲賞大賞を受賞した『不眠普及』の、ツアー先の京都での、アフタートークの質疑応答で言われた。
『きれいごと、なきごと、ねごと、』の初演でも再演でも、アンケートで書かれ、Twitterで書かれた。そして、そう言われない作品もある。

僕がついついそういう言葉を口にしてしまうのは、「どういうきっかけで人は女性的/男性的だと判断するのだろうか?」ということに興味が今、かなりあるからだ。
それが、そもそもその言葉自体を使ってほしくない櫻井さんの意思とすれ違う。
そして、倫理的にいえば、櫻井さんのほうが恐らくは正しい。
世の中にはいろいろな人がいるから、それは血液型占いで性格を判断するよりも暴力的で乱雑だから。

僕も櫻井さんもジェンダーに一定のこだわりがある。
それが恐らく別の方向を向いている。
この企画の面白味でもあり、複雑さでもある。

この言葉にこだわる理由はある。
僕は人生で、あまり「男性的な男性である」とみなされたことがない。
「男の中の男」と呼ぶ人は一人もいない。
でもじゃあ女性的なのかというと、そういう側面が全くないとは言わないけれど、そういうアピールも多分低い。
じゃあ、なんなんだ。
「男性的」ってなんなんだ。
「女性的」ってなんなんだ。
「何的」なんだ。この状態は。
ということを、人生で断続的にずっと考えている。
『きれいごと、なきごと、ねごと、』を書いている時は、もっと考えていた。

女性的、男性的、それぞれが保有するイメージみたいなものは、時代によって、社会によって、国によって、たやすく変容する。
それは古来から受け継がれた伝統ではない。
それを過剰にあてはめたり、入れ子にしたり、強弱を調整したり、歪ませてくっつけたりして、新しい人が生まれて、戯曲で駆け回る。

どうしても、そういうフィルターを通さずにキャラクターを作るということが、今のところ出来ない。
(このキャラクターは、男性的な要素を薄めにしておこう)みたいな形で浮かぶ思念を完全に振り払うことが、どうしても。

僕の思考回路をセッティングし直すことは、時間をかければ可能だろうか。
世界の暗黙の了解をセッティングし直すことは、世紀をまたげば可能だろうか。
人類が「性別」という言葉の「別」を放棄できる日は来るのだろうか。
遠い未来の話をしているようにも、近い未来の話をしているようにも思える。

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