見出し画像

1人の女性がエンジニアになるまで ~ Ayaの場合

トロントでフルスタックエンドエンジニアをしているAyaです。25歳までプログラマーという職業の存在すら知らなかった私がどういう経緯を経て、現在カナダでプログラマーをするに至るのかを書きます。

幼少期

兵庫県姫路市で一人娘として生まれました。両親は商売をしており当時は忙しかったので、私は0歳から保育園に通っていました。忙しい中でも、両親は大学に行けなかったコンプレックスからか大変教育熱心で、私を七田式という幼児教育に通わせてくれました。

小学校

小学生の頃はスイミング、ピアノ、バレエ、スケート、囲碁など多くの習い事をさせてもらいました。(何一つとして身についていないのですが...。) 小学校低学年から学校の勉強だけでは物足りなくなくなり、4年生から塾に行くようになりました。その塾では四谷大塚という中学受験向けの教材を使い、毎週日曜日にはテストを受けて全国順位が出されていました。塾でも一番、全国順位でも何度も上位に上がることがあり、その度に両親祖父母共に喜んでくれて、ますます勉強に励み、兵庫県の女子では一番偏差値の高い私立中高一貫校に合格することができました。

小学校生活はどうだったかというと、クライメイトの女子から呪いの手紙をもらったり、転校したら仲間外れにあったりと、女子の陰険ないじめの対象になりがちでした。

中学・高校

私の通った中高は女子の入学人数を制限しており、女子は全体の約4分の1でした。(現在は平等に点数で足切りをしています)。中高では小学校時代とは違って友達もできて楽しく過ごすことができました。

学校の目標は東大または国立医学部の合格人数を増やすことだったので、私も高1から東大に行くことを意識させられました。本当は数学が一番得意だったのに、化学、物理、生物が芳しくなかったので(東大の理系受験では化学、物理、生物の内2科目必要)、東大合格のために文系を選びました。家にパソコンはなく、中高時代はアナログな紙と鉛筆を使った勉強にあけくれる日々でした。

大学

東大文科Ⅱ類(後に経済学部に進学)に無事に合格し、東京での一人暮らしが始まりました。その頃には不景気の影響で父の商売はうまくいっておらず母も失業中だったため仕送りは家賃+月3万で、サークルや部活動をする余裕はなく、とにかくバイトを始めました。クラスは35人中女子は5人いたのですが誰とも馴染めず、またサークルにも入っていなかったからか友達はほぼできず、大学前半は孤独でした。3年生で経済学部に進学してからゼミや学部で友達もでき、また4年間バイトをし続けたおかげで海外旅行ができ、やっと大学生活が楽しくなってきました。

大学4年になり、周りに流されるまま私も就活を始めました。特になりたい職業はなかったのですが、海外旅行好きから海外で働けるチャンスのある会社がいいなとは思っていました。そこで海外駐在のありそうな商社や大手金融、大手メーカーにエントリーしました。周りでは10社以上内定をもらっている人も多くいる中、私の内定はメガバンク1社のみでした。特に行きたいわけではなかったですが、家族も私もお金がなかったので就職する以外の選択肢は考えられませんでした。

銀行員(22歳)

東京での1ヶ月の新人研修後、神戸に異動になりました。当時、東京に彼氏がいたこともあり辞令を渡されたときは涙が止まりませんでした。それから神戸での2年間の銀行員生活は、年の近い先輩や同期、一般職の女性たちに優しくしてもらってありがたかったのですが、それ以外は本当に最悪でした。

1年目行員は上司よりも早く出勤して、エレベーター前で上司が到着するのを待って挨拶をする、上司よりも先に帰るときは全ての上司にお伺いを立ててから帰る、休みを取るときも上司全員の稟議を取る、毎日先輩の誰かが怒鳴られている、1年目の仕事は雑用しかなかったのでとにかく空気を読んで上司に気に入られることが重要視されていました。私はそういうことが苦手だったので、東大卒の変なやつ、でも女子だから許されてる、みたいな立場でした。2年経って東京本部に異動になりそれはかなり嬉しかったのですが、やはりそこでも同様の窮屈な毎日でした。

フリーター(24歳)

東京に異動になってから半年後、外国人と住むシェアハウスを見つけて引っ越しました。ハウスメイト18人中、半分は外国人で残り半分の日本人もほぼ全員留学経験ありで、毎月パーティーが開かれ、毎日英語が飛び交っているインターナショナルな環境でした。このシェアハウスでは転職は当たり前で、スタートアップで働く人も多く、みんな生き生きとしていました。ここでの経験は私の価値観を大きく変えて、もっと自分の好きなことを仕事にしたい、英語をもっと流暢に話したい、と強く思うようになりました。そして数ヶ月後にはシェアハウスのメンバーに後押しされて銀行を辞めることを決意しました。

辞めたもののなにがしたいのか分からなかったので、知り合いのAirbnbを手伝ったり、ビデオプロダクション会社でバイトをしたり、友人のシステム開発会社を手伝ったりしました。その友人の会社では、HTMLやCSSを触る機会があったのですが、バックエンドのこととなると全く戦力になれなかったので、すごく悔しい思いをしました。友人に勧められるままRuby on Railsのチュートリアルをしてみたのですが、エラーが出て思うように進めれないし、チュートリアルの内容も私にとっては全て難解でした。そこでチュートリアルは諦めて、Paizaという問題形式のプラットフォームを使って勉強することにしました。問題を解き進めて行くと会社にエントリーできる仕組みになっていて、そこで何社かエントリーしました。

転職(26歳)

未経験からでも運良く、テレビ業界向けにビデオオンデマンドプラットフォームを開発しているシステム開発会社にRuby on Railsエンジニアとして就職することができました。エンジニアは全部で20人ほどで、その中に女性のエンジニアの方が1人だけいて、最初の数ヶ月はその方のメンターのもと簡単な機能の追加や、お客さんのプロジェクトの運用をしました。就職する前は何ヶ月かかってもなにも作れなかったのに、会社では1年のうちに、数社のお客さんを任されて、データベース、アプリケーション、API、gemの開発、フロント、インフラ、サードパーティとのインテグレーション、ミドルウェアの設定など全体的に関わるようになっていました。会社での人間関係も良好で、小さい会社だったのでCTOから直接指導を受けることができ、毎日学ぶことがたくさんあって、社会にインパクトのある大きなサービスに携われて、それなりに充実していたのですが、日々ストレスを感じていたのと毎日深夜まで働いていたことで体も心も休めることができず2年目には疲弊しきっていました。新卒就活のときにも、シェアハウスにいるときにも思い描いていた海外生活に踏み出すチャンスかなと思い、カナダ留学の準備を始めました。

カナダ留学(28歳)

このときは日本でバックエンドエンジニアに疲れ切っていたので、カナダではデザインとフロントエンドのコースを取ることにしました。カレッジについてはこちらを参照。このコースでは最後にCo-opというインターンをすることが必修になっているのですが、2年間デザインを学んだ結果、デザインよりもやっぱりプログラミングをしたいという意思が固まっていたので、フロントエンドでのインターンをすることにしました。

現在(30歳)

インターン先の会社でインターン後も業務委託として雇ってもらい、フロントエンド中心にそこで1年くらい働きました。その後、2回転職を経て、現在は30人ほどの会社でフルスタックエンジニアとして働いています。転職についてはこちらを参照。現在の会社ではお客さんと一緒にお客さんのプロジェクトを開発をしているので、日本で言う下請けにあたるかもしれませんが、日本で言われているのような多重下請けや低賃金過労といったマイナスの側面は一切ありません。むしろ様々なプロジェクトで様々な言語を使い、バックエンドもフロントエンドもこなし、私にとっては理想の環境です。

今後

自分でプログラミングの才能があるとは思わないのですが、成果が目に見えるところやいくらでも学ぶことがあって勉強して、経験を積めばそれがスキルとして世界中どこでもどの会社でも使えるのはプログラミングの好きなところです。プログラマーでもコミュニケーション能力は必要ですが、私は子供のときにいじめられた経験や銀行での生きづらさを考えると、プログラミングという自分の属する組織への別のアプローチの仕方があるのはすごく安心感があります。私は様々な選択肢の中からプログラミングを選んだので、今後もプログラミングを続けていくと思います。

画像1

会社の同僚とピクニック♪

2021.12.2 追記

私がエンジニアになるまでのストーリーをBackground.radioさんにインタビューしてもらいました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?