トラウマ。

雨の夜、ネコを拾った。
びしょ濡れの身体を震わせて、小さく丸まって、抱き上げようとしたら牙を剥き、手を引っ掻いた。

「ッつ・・・」

手の甲に一筋、傷ができ、血が滲んだ。
ネコは怯えた目で、それでも精一杯の強がりでこちらを睨み付けている。

「怖がるなよ。何も悪いことはしないからさ」

血の滲んだ手を差し伸べて、もう一度抱き上げようとしたら、低い唸り声は上げているものの、今度は抵抗しなかった。
すっかりやせ衰えて、ガリガリの身体に、濡れそぼった毛は、あまりにもみすぼらしく、急いで家に帰った。

濡れた毛をタオルで拭きながら、身体中を調べてみたが、特にこれと言った怪我はないようだ。
牛乳を与えたが、びくびくとして落ち着きなく、少し離れて見ていると、恐る恐る舐め始めた。
すっかり平らげてしまうと、少しは落ち着いたのか、毛づくろいを始めた。
脅かさないように、そっとゆっくり近づくと、ネコはびくっと身体を震わせ、威嚇するように唸り声を上げながらこちらを睨んだ。

「大丈夫。何もしない。何も怖がることはないんだ」

そっと声をかけながらゆっくりと手を伸ばし、頭を撫でてみた。
すると、唸り声はやみ、ネコはおとなしくなった。

「よほど怖い目にあったんだな。でも、もう大丈夫だから」

そう言いながら撫で続け、ネコが安心するのを見計らって、そっと抱き上げた。

「怖がることはないよ。な?」

徐々に脱力していくネコを見て、思わず微笑んだ。
ふと、ネコは身を起こし、さっき自分が引っ掻いた手の傷を舐め始めた。ざらついた舌は傷に引っかかり、思わず苦笑いをした。

「ああ、ありがとう。でもさ、お前の舌は痛いんだよな」

それでもネコは丹念に傷を舐め、そのうちひざの上でまるくなったまま静かに眠ってしまった。

ネコは今までどんな風に暮らしてきたのか、心を許したかと思うと、急によそよそしくなったり、突然攻撃的になったり、こちらが何をしたわけでもないのに、警戒心をあらわにしたり、なかなかなつこうとしなかった。
うっかり気に入らないことをすると、態度を豹変させ、初めて会った日のようにその爪を振りかざし傷つけるのだ。

それでも、毎日一緒に過ごすうちに、ネコにはネコなりのルールがあって、そのルールが守られないと機嫌を損ねる、ということや、こちらには悪意はないけれど、ネコにとっては悪意と感じられる何がしかがわかるようになっていった。
日一日とガリガリだった身体もふっくらと肉付いていき、何かに怯えたように、いつもあらわにしていた警戒心もなりを潜め、きつかった顔つきも穏やかになっていった。

そんなある日、ちょっといらいらしていて、ついネコに八つ当たりをしてしまった。
いつものように脚にまとわりついてきたネコに、

「うるさいな。あっちへ行ってろ!」

と邪険に軽く蹴りつけてしまったのだ。
そんなに悪意があったわけでもなく、ほんのわずか、脚を当てるくらいの感覚だったのだが、ネコは見る見る表情を変え、部屋の片隅に逃げ込むとあの日に逆戻りしてしまった。
いくら声をかけても、がたがたと震え、怯えた目でこちらを見るだけで、出て来ない。

「ごめん。本当にごめん。もう2度としないから」

きっとネコは、そんな風に邪険にされ、挙句の果てに捨てられたのかもしれない。

「ほんと悪かったから。ね?だから出ておいで」








それから何時間も、ネコが出てくるまで、ずっとそこで見つめていたが、ネコは出てこなかった。
気が付くとそのままそこで寝てしまったようだ。寒くて目が覚めたが、腕の中だけが妙に暖かい。
見ると、腕の中に、ネコがまるくなって静かに寝息を立てていた。


<初出:06.11.15>

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