見出し画像

自分軸とか他人軸とか

自分軸を持つというこだわりを手放してみた

自分軸がないことが悩みだという人。

まあ、自分も含めてそうだったわけだが、一昨年から去年の今頃にかけて、やけに、この「軸」というものにこだわっていた時があった。

自分軸がない=自分の意志(考え)がよく分からない

というのが私の状態だった。

ずっと誰かの意見に翻弄されてきたというか、
周りのさまざまな意見に正解をみつけようとしていたからなのだが。

そんな自分を変えたくて、
そんな自分が心底嫌で仕方なくて、
なんとかしてその「自分軸」というものを持ちたい!
そんな欲に燃えていた。

けれどもそこから、自分軸が大切だとか、他人軸ではなく自分軸へ!、軸は折れるから、自他の軸のバランスが大切だとか、、

こういったものを目にするたびに、さらによく分からなくなっていくという事態に陥っていく。

なんなんだ。。。。

しまいには、もう「自分軸」なんていう言葉すら見たくないという状態に。

とにかく、もうよく分からなくなっていたし、軸をしっかり持つというこだわりをやめてみることにした。

自分の違和感にヒントが

そんなふうに、とりあえず軸に対するこだわりを一旦捨てて、まあ日々の暮らしをそれなりに淡々とこなす毎日。

あんなに変わりたい!と思っていたおもいも、季節が巡りゆくのにつれ、次第に薄れていった。

そんなある日。

ある人の発言に対して、いつも以上に反応している自分がいた。
「ん?…」
「いや、私はそうは思わない。私はこんなふうに感じる」

その時になってなんとなく、自分の中であるボヤ〜とした輪郭めいたものが浮かび上がってきた。

あー、これが自分の考えであって、意志なんだ。。(あたりまえだが)
しかもそれは、相手の自分とは相反する考えがあるからこそ、みえてくるものであって。
そしてそれは、自分の違和感の中にヒントがあったなんて。

そんなふうに、突如、私の中でストンと腑に落ちたのが感じられた。(なんだ、自分軸ってそういうことか)

となると、
自分軸がないと思い込んでいたのは、
私自身が何をどう感じていたのか、ということに対して耳を澄ませていなかっただけ。

子供の頃から、大人に対して、親に対して、世間に対してものすごく反発心を抱いていた私だ。自分の軸がないわけがなかったのだ。


‘自と他の考え方は同じである方がいい’

‘失敗しない正解を知りたい(自分の考えはどうなんだろう、自信がない)’

こんなふうに、いつの間にかとらわれていたのかもしれない。

夏の朝
静かな海をボーッと眺めてみる
何にもとらわれない自分がそこにいた


そう考えていくと、

自分軸とか他人軸とか、もうそんな言葉もどうでもいいような気がした。
軸を持つことが「良い悪い」で判断されることにも、正直、クエスチョン。

自分の考えというものは、一人ではボヤ〜とした実態のないもののように思える。
誰かがいるからこそ、自分の考えというものがあらためて明確に輪郭を帯びてくる。

それは時間(とき)の流れとともに変化もしてゆくし、揺らいでもゆく。

軸があるとか無いとか、軸を持つとか持たないとか、自分軸がない自分がダメだ、、などなど

そこにこだわる必要は、無いのかもしれない。

自分が何を感じているか

ただただ、そこにいつもフォーカスし続けるだけでいいのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?