イマヌエル・カントの「対象が認識に従う」話と西野亮廣の「わからないものをわからないと言え」という話から考えたこと。

序章:本質を理解するのには時間がかかる

本質を理解するのには時間がかかると思うんです。文字で読んで字面を理解することは出来たとしても、それを本質から理解することはもっと時間がかかります。

すぐに理解できると錯覚するのは、僕達が長い間「学校」という非常に教育技術の高い組織にいたからであって、先生がいなくなってから新しい概念を学ぶ場合はかなり時間がかかります。

最近僕はドイツ哲学に興味があります。先日noteにアップした「ゲシュタルト心理学」も「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」を唱えたフェルディナント・テンニースもドイツ生まれ。有名なところでいうとニーチェ、ヘーゲル、デカルトとかもドイツだし、今回のテーマ「対象が認識に従う」もドイツの哲学者であるイマヌエル・カントが言い出したことです。

興味があるので、ネットで検索して文字を読みドイツ哲学を理解しようとしますが、その場で本質を理解できることはほとんどありません。

1,字面を理解する

2,頭の中で言葉を反芻して日常生活を営む

3,ある日突然、その言葉の本質が理解できる

といったフェーズを踏んで僕は理解しています。


ずっと2のフェーズにあった、「対象が認識に従う」というカントの言葉を最近は本質から理解できたような気がしたので、今回はこれを書いています。


本題:新しい事柄を正しく認識するために必要な2つのステップ

変化が激しい社会を理解するに辺り、2つのステップが必要だろうな、ということをイマヌエル・カントの「対象が認識に従う」の本質を理解したことにあたり思ったので聞いてください。

「対象が認識に従う」とは

まず、「対象が認識に従う」という言葉について少し解説します。

カント以前の時代の話をします。

フランシス・ベーコンという哲学者が唱えた経験論では、「知は力なり」という言葉が有名ですが、観察の経験によって知識を蓄えていくことが行われました。

が、その次に現れたルネ・デカルトという哲学者がそもそも我々の観察(認識)は正確なのか?とベーコンの経験論を否定します。

そこで、人間の認識についてコペルニクス的転回をしたのがイマヌエル・カントです。

「認識が対象に従う」というのが既存の考え方でした。

空を人が見た時に、人はそれを空と認識します。空が「対象」の場合、「それは空である」と「認識」が後を追います。

しかし、カントはこれを否定します。

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うのである」

つまり、人がそれを空と認識するからそれは空なのである。ということです。空を知らない人間が空を見ても、それを空と認識することはできませんので。

「空」という「認識」が先にあり、「空と言われているもの」という「対象」が「認識」の後を追うことで、「空」となります。

 1stステップ:「認識できないもの」という受け皿を用意する。

上記の話のままでいくと、「空」という概念を持っていない人間は空を認識できません。すると、その人間は自分の認識の範囲内で空を認識しようとします。例えば、「海」を「青く広がっているもの」と認識していたとすると、「空」も同じく「青く広がっているもの」ですので、間違えて「空」を「海」と認識してしまうかもしれません。

これが、間違った理解の原因です。

最近の経済システムに置き換えて考えてみます。

ビットコインを始めとする分散型の仮想通貨は非常に新しい概念で、株式会社メタップスCEOの佐藤航陽氏は「お金2.0」という題名で本を書かれました。ここでの2.0には「既存の認識では正しく認識できない新しい概念」という意味が含まれています。

今までの経済において通貨とは「誰かがその価値を保証しているもの」でした。円であれば日本銀行がその価値を保証しています。そもそも紙幣の起源はゴールドとの引換券でした。

しかしビットコインの価値は誰も保証しておらず、「皆が価値があると思っている」ために通貨として機能しています。

今までの通貨「誰かがその価値を保証しているもの」という認識にビットコインを当てはめた時、ビットコインは通貨として認識できず、自分が持っている間違った認識に無理やり当てはめることで間違った認識をしてしまいます。

最近、インフルエンサーのやぎぺー氏がクラウドファンディングで集金した際にやや炎上しました。

評価経済社会という新しい概念を既存の資本主義社会という認識に無理に当てはめようとした際に間違った認識が起こってしまいました。

キングコングの西野亮廣氏は日々、新しいサービスを展開させています。レターポットやしるし書店といった新しすぎるサービスは人々の認知を超えますので、多くの人がこれに対して否定的な意見を挙げるのです。

それに対して西野氏は度々、「わからないものを否定するな。わからないものはわからないと言え。」と発言しています。

ソクラテスのデルポイの神託の話に出てくる非常に有名な話に「無知の知」という言葉があります。ソクラテスが他の知識人よりも優れているものは、「自分が知らないということを知っている」とう部分である。という話でしたね。

「わからないもの」「自分の認識を超える新しい概念」を、自分の認識に無理やりはめ込んだ場合、間違った認識をしてしまうので、それらについては「わからないもの」「認識できないもの」という受け皿を用意して、そこに溜め込んでいったらいいのではないか。という提案です。

2nd ステップ:「認識できるもの」の受け皿を少しづつ拡大させていく。

僕が新しい概念を理解するためのステップは上記でも紹介したように、以下の順番になっています。

1,字面を理解する
2,頭の中で言葉を反芻して日常生活を営む
3,ある日突然、その言葉の本質が理解できる

2のフェーズでは、対象が「認識できないもの」の受け皿に入っています。そして、ある日突然本質を理解します。

最近、僕が哲学関係の勉強に興味があるのは、多くの「認識できないもの」を時間を掛けて本質から理解することで「認識できるもの」の受け皿を少しづつ広くしていきたいと考えているからです。

例えば今回、「対象が認識に従う」という言葉の本質を理解したことで、僕の認識の幅が生まれました。その認識の範囲に入るものであれば僕はそれを「認識できないもの」という受け皿に入れるフェーズ(2)を抜かして理解することができるのです。

勉強とはまさにこれなんだなぁ、と24歳になってやっと理解したような気になっています。


「1+1=2」ということを字面で理解しているだけでは、認識の範囲は拡大しませんので「2+2=4」ということを瞬時に認識することは出来ません。本質から理解して初めて「2+2=4」がわかるようになり、最終的に「2+2=2×2=4」まで理解できるようになるのです。「2×2=4」が認識できない場合に加算という自分の認識の範囲で無理に理解しようとすると「3×3」の答えが「9」ではなく「6」になってしまうのです。


と、ここに書き連ねたことは僕がイマヌエル・カントの「対象が認識に従う」という言葉の本質を理解した瞬間に思いついたことです。

今後も新しい概念を本質から理解した時に、またnoteを更新します。

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