僕の死生観
この記事はヤバイです。
僕の頭蓋骨を切り開いて、脳みそを生のまま食すような感じです。
先日のツイキャスの最後の5分で少しだけ喋ったないようなのですが、なんかもっと深く聞きたいという人がいたのでその方へ向けて書いてます。という体で、公開するのですが僕も自分の人生哲学っていうのは少しずつ発信していきたいって思ってました。
スピリチュアルっていうんですかね。幸せになるための方法というか。
僕、今もめっちゃ幸せなんで、多分幸せを感じる能力が人よりも優れてます。と、言うわけで発信していきたいのです。
が、今回の記事はちょっとエグみが強めというか。なんの参考にもならないただの思考遊びでございます。
「生きる」ことと「死ぬ」こと
僕の理解ですが、(というかこの記事全部僕個人の見解です。わざわざ言う必要もないけど)「生きる」とは依存することで定義できます。
「生きる」ということは何かに依存することで確認することができるんです。
僕が生きていることを証明するには、第三者が僕の存在を確認する必要がありますよね。
Twitterにいる池田あゆみというアカウントもTLにいて、皆さんと関わりを持っているので「存在している」という事ができるわけです。「相対的」(他との関係において成り立つ様)なんです。
そして、「死ぬ」ということは全ての依存から解脱(解放)されることだと思っています。
僕がTwitter上で皆さんとの関係を断ったとすると、第三者が僕の存在を確認できないので僕のアカウントは「死んで」います。
他との関係を絶ち、絶対的な存在になることが「死ぬ」ことだと僕は思うのです。
絶対的な存在というと「神」が思い浮かぶ人は多いかもしれませんね。
他に依存しない完全な存在です。同時に、「自然」「宇宙」「アルケー」なんかも絶対的な存在とされることが多いです。一元論(全てはアルケーの変化した姿)では、僕も、あなたも、神も、全てアルケーが形を変えた姿で抽象度を最大まで高めると皆同じ存在であると定義されたりしています。
「悟る」=「神になる」=「死ぬ」
なんて式が成り立つような気もしてます。
イエスは一度死ぬことで、自分がアルケー(神)であることを理解(悟)したのではという話もありますが、宗教と哲学の話を混同させるのはよくありませんね。
僕は宗教はあくまでも教育のためのもの。
哲学は宇宙の真理を解明するものだと思っています。
と、言うわけで
「生きる=依存する、相対的であること」
「死ぬ=絶対的な存在になること」
と仮定した場合の人間の欲求について見ていきます。
「自由」への欲求
・親から自立したい
・一人で暮らしたい
・会社を辞めたい
・コミュニティから抜け出したい
いつも、というわけではありませんが、ふとした時に今依存しているものから解脱して自由になりたくなる事ってありますよね。
これってある意味、「死」への欲求だと思うわけですよ。
今、様々なものに依存していることで「生」が保たれているのですが、ここから逃れていくことって「死」に近づいていくことと同義じゃないですかね。
「死」というとイメージしにくいかもしれませんが、「悟りたい」とか「絶対的な存在になりたい」という欲求なら理解しやすいかもしれません。
・食欲
・性欲
なんかは特にわかりやすい「生」への欲求です。
食べ物に依存し、異性に依存することで「生きて」いるわけです。
で、僕は今「不食者」になりたい。食べ物への依存から解脱したい。と思ってるんですけ江戸、これもまた「自由」の渇望、「死ぬ」ことへの欲求です。「神」になりたいっていうと大げさですけど、「悟りたい」んです。
ジョジョの奇妙な冒険という漫画に「カーズ」という最強の敵がいるんです。
こいつ、強すぎて天敵がいないために生殖機能を備えていないんです。(自分が不死のために子孫を残さなくとも種を存続できる)
異性に依存しない彼はある意味絶対的な存在にかなり近いなぁ。なんて思っています。
なんてことを僕は頭の中で考えることで、友達がいなくても一人で楽しめちゃうわけなんです。
で、最終的に僕の人生は「他」への依存から少しずつ解脱していくことで、生きてる内に死にたいなぁなんて思ったりしてます。
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