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あいちトリエンナーレから 表現の自由と嫌いな作品との向き合い方を考える

※この記事は、最後まで無料で読めます。

少女像が気に入らないとして、あいちトリエンナーレ内の企画展『表現の不自由展・その後』を脅迫した容疑者が逮捕されたとの報道があった。脅迫によってイベントが潰されるというのは由々しき事態であり、捜査にあたった愛知県警には感謝したい。

『表現の不自由展』の再開を考える上で大きな障害となっていた容疑者が逮捕されたことによって、また動きがあるだろう。

さて、今回の一件は保守にとってもリベラルにとっても、「表現の自由を守るとはどういうことか?」と考えさせる事件になったと思う。

筆者としては嫌いな作品との向き合い方に関しては 以前に結論を出している のだが、前回は複数のケースを並べる形となった。そこで今回は、『表現の不自由展』で展示された昭和天皇の写真を燃やす作品を中心に、改めて記事にしようと思う。


炎上の原因は、津田大介芸術監督と一般人が持つ素朴な感情とのズレ

今回炎上したのは、津田芸術監督と一般的な人たちとの間にある2つのズレが原因だと思われる。

リベラル系の津田芸術監督には戦争責任などの話が先に立つのかもしれないが、一般的な人たちの皇室に対する意識はもっと素朴なもので、ここに1つ目のズレがある。

既に昭和天皇の崩御から30年の歳月が流れており、生前の昭和天皇を見た思い出があるのは40代まで。30代からは、教科書上の人物という感覚になってきているだろう。

では、昭和天皇を歴史人物と見ているのかと言うとそう単純でもない。

令和最初の一般参賀が14万人超の人出で盛り上がった ように一般的な人たちの皇室支持率は高く、これこそが記憶に新しい平成を通して醸成された空気である。

一般的な人たちにとっての昭和天皇は、あの天皇陛下の御祖父様であり、あの上皇陛下の御父様だ。親しみを感じている天皇陛下の御祖父様のこととなれば、臣民感覚など持たなくとも、その写真を燃やされることに不快感を抱くのは素朴な反応だろう。

・朝日新聞 (19/4/18)・・・いまの皇室に親しみを 持っている 76%
・日経新聞 (19/5/18)・・・いまの皇室に親しみを 持っている 78%
・共同通信 (19/5/3)・・・即位された天皇陛下に親しみを感じる82.5%
              女性天皇を認めることに賛成79.6%


一般的な人たちの皇族に対する意識が臣民感覚とも異なるのは、女性天皇の話題において確認できる。

皇室は永く男系継承を守ってきており、保守はこの男系継承を守ることを考えるが、世論調査では女性天皇を容認する声が大きい。悠仁親王殿下と愛子内親王殿下とはわずか5歳違いで、愛子内親王殿下が即位の適齢であれば悠仁親王殿下も適齢となるはずで、皇室典範を改正してまで愛子内親王殿下に即位していただく理由は無いにもかかわらずだ。

それでも一般的な人たちが男系に拘らなくても良いと考えるのは、基本的に天皇を良いものと捉えており、皇位継承者は多い方が永く続きそうだと素直に考えるためであろう。

そして、もう1つのズレは芸術に対する意識だ。

一般にカルチャーのうち、文学や美術、演劇、音楽などはメインカルチャーと呼ばれ、漫画やアニメ、ゲームなどはサブカルチャーと分けて呼ばれる。

大きな1つのカルチャーとして語ることも可能であるのにわざわざ上下に分ける背景には、「芸術とは上等なものであり、万人にとって素晴らしい物」という素朴な感情がある。

芸術を好ましいと思うが故に、芸術に求める理想が高いとも言える。

従って、自分を不愉快にした作品は上等な芸術であるはずがなく、「あんなもの芸術ではない!」という反発になる。当該作品に限らず、芸術作品の中にはある種の挑発を含む物もあるが、その挑発にすべての人が共感できる訳ではない。

津田芸術監督が昭和天皇の写真を燃やす作品に触れたインタビューで 「二代前だし」と応えている動画が出回っている が、一般的な人たちとのズレをよく表した受け答えだと筆者は思っている。



被写体が誰かは関係なく、写真を傷付けることは蛮行

保守系の人たちが昭和天皇の写真を「御真影」と呼び、リベラル系の人たちが「御真影など時代錯誤」と返すからおかしな方向に行っているが、被写体が誰であろうと人の写真を燃やすのは野蛮な行為である。

筆者がイジメを受けていた頃の話。教室の壁に生徒の写真を貼ることになった際、筆者は自分の写真に落書きや画鋲を刺されたことがあった。

写真であれば、やり返してくることも無く、痛いと声を上げることも無く、一方的に傷付けることが出来る。写真を傷付けるというのは、そうした卑怯で汚い蛮行であって、主張が異なる相手の写真を傷付けて粋がったところで何処にも英雄性はない。

昭和天皇であろうと、安倍総理であろうと、野党代表であろうと、他の有名人であろうと、一般人であろうと、写真を傷付けられて良い人など居ないはずだ。

もう1つ意見を付けると、21世紀にもなって、昭和天皇の写真を燃やすことに「タブーを破った」と思う感性にも相当な時代遅れを感じる。元号も令和に改まり、実録も刊行された昭和天皇は既に歴史的な政治的な検証を受ける段階にある方で、その写真を燃やすことに価値があるとは思えない。

結局のところ、筆者はあの作品が嫌いである。

そもそも津田芸術監督は、過去に「一線を越えたヘイトは言論ではない」と発言している。筆者には写真を燃やすというのは人への配慮を欠く野蛮な表現に見えるが、津田芸術監督にとっては一線を超えない表現なのだろうか?



「その作品は嫌い」という個人的感情の処理は、各個人で行うもの

ただし、筆者の「あの作品が嫌い」という感情は、あくまで筆者の個人的な感情だ。個人的な感情である以上、その感情の処理もまた個人で済ませるものだと筆者は考えている。

例えば「同じ日本人なら、昭和天皇の写真を燃やされて怒らないのはおかしい!」と、自分と同じ属性の人たちに同調圧力を掛けないよう、筆者は努力しているつもりだ。共感を得ることはうれしいが、「私と貴方は別人格」という分別は大切なことだろう。

また、少なくとも筆者は、あの作品を遠ざけることに関して社会に手伝ってもらう必要がない。なぜなら、当該展示作品は意図して見に行かない限り目に触れることのないゾーニングがなされている訳で、筆者は簡単に 見ない自由を行使できる からだ。

従って、筆者は、当該作品を嫌いであるものの『表現の不自由展』に中止を求めることはない。



ゾーニングされた展示作品は、意図して見に行く人たちだけが鑑賞する

昭和天皇の写真が燃やされる作品の展示は、下記するように十分なゾーニングがなされている。

① あいちトリエンナーレのチケット(当日限りの1DAYパス一般が 1,600円、会期中有効のフリーパス一般で 3,000円)を購入
② 名古屋市にある愛知芸術文化センターまで足を運び、8階に上がって『表現の不自由展・その後』の案内が出ている展示室まで移動
③ 盛況であれば並んで待つ


当該作品を見るにはこれだけの関門があり、これだけの関門を越える意図がなければ見られない環境にある。

そうした意図を持つ人たちの数はそれ相応に限られる訳で、そのように限られた人たちが何処で何を見るかという話に、筆者は横から口を挟む必要性を感じない。

気に入らない作品だが確認のために見ておきたいという人たちに至っては、自分で覚悟をして見に行かれる訳で、見た後で自分の心が傷んだと社会に訴えるのは筋違いだろう。社会の側が見に行くように命令したのであれば話は別だが、御自分で見ると決めて行動されたのであれば社会に否はない。

もっとも、私たちの社会は R-18 や R-15 といったレイティングシステムを持っている訳で、『表現の不自由展』のように見る側に一定の思考を求める展示内容に関しては R-15 を付けて注意喚起するぐらいの工夫はあっても良いかもしれない。



自ら反撃することができない皇室の思いをどう配慮するか?

とはいえ、当該作品で使われているのは昭和天皇の写真であり、「自分の口で、嫌なことを嫌と言えない皇室を対象としていることに関して怒りはないのか?」という部分は残る。

この十年間は共感力や empathy が求められており、他人の怒りを代行する方が真っ当なのだと思う。

しかし、SNSで発言を続けるようになって以来、筆者は「他人の怒りを代行することは、果たして正しいことなのか?」と疑問を持っている。特に SNS では何か事件や事故が起こる度に、被害者の怒りを代行する声が噴き上がるようになっており、その凶暴性には少々うんざりしている。

従って、昭和天皇の写真の件も、筆者はあくまで自分の個人的感情の問題として捉えている。

筆者は、あの作品は嫌いだが、脅迫や電話突撃等によって企画展の中止を迫るのは言語道断と考える。また、嫌いな物だからといって排除する対象とすべきではなく、『表現の不自由展』中止には反対する立場をとる。



嫌いな物を排除の対象とすることは、ヘイト・クライムと同じ構造

・人種が違うから嫌い
・性別が違うから嫌い
・国籍が違うから嫌い
・信仰する宗派が違うから嫌い
・身体の作りが違うから嫌い
・言動が気に食わないから嫌い

人はありとあらゆる理由を用いて他人を嫌うことが出来るが、ヘイト・クライムは、その嫌いな対象を排撃する犯行だ。そのため、嫌いな対象が集まる施設での無差別攻撃など、被害は甚大になることが多い。

自分が嫌いな対象について、それが存在することさえも許さず、排除の対象とする。その排除の対象が人であっても作品であっても、ものの考え方は同様だと筆者は見ている。

勿論、昭和天皇の写真を燃やす作品の撤去や『表現の不自由展』の中止を求めた人たちは、「ヘイト作品の展示を止めさせたいだけだ」と反論されるだろう。

では、その中止を求めた人たちのうち、「こんなけしからん作品を作ったのは誰だ?」と創作者を調べなかった人は何%だったのだろうか?

一部では知られた名前とは言え、SNSでは既に創作者情報の拡散も行われている。この様に作品の排除と創作者の排除は実はとても近い距離にある訳で、「嫌いな物=排除すべき対象」と考えるのは危険度の高い考え方だ。

嫌いな物に対しては嫌いという意見表明までが限度で、嫌いな物が存在することまで許さないのは行き過ぎである。

気に入らないコンテンツとの付き合い方=消費しない自由の行使(2018/11/10 鮎滝 渉)



クリエイターは、しばしば執拗な嫌がらせで排除されてきた

いい年をして漫画もアニメもゲームも卒業しなかった筆者は、サブカルチャーを愛好してきた。

SNS や投稿サイトを通じて一次創作者や二次創作者をフォローしているが、そこでしばしば目にするのが、創作者に対する脅迫や嫌がらせである。

●投稿した作品に対して、リアルにそんな女性はいないから作品を取り消せと口々に訴え、創作者が謝罪に追い込まれる。
●登場人物に原作設定ではあり得ない行動をさせたことへの不満から攻撃が始まり、二次創作者が筆を折る。
●きちんとR-18指定で販売されており、最初から女性人権活動家等に読ませる目的がない作品であるにも関わらず、作中の女性の扱いが気に入らないと執拗な DM 攻撃が行われ、応対に疲弊した創作者が活動を止める。


筆者が新作を楽しみにしていた創作者の中にも、SNSで断筆を宣言し、投稿サイトのアカウントを消して、創作活動から離れていった方たちがいる。

筆者は、作品を批判する声が、あっという間に創作者を糾弾する声に変わる流れを見てきた。作品への批判が創作者への人格攻撃に変わり、1人2人による攻撃から集団による攻撃に発展し、創作者を排除するまで執拗な攻撃が続く。

そうした嫌いな物が存在することを許さずに排除していく流れを、筆者は危惧している。



自分の個人的嫌いを理由に作品を排除することは、他人の自由を侵害する

人が感情を持つ生き物である以上、ある作品を見てそれを許せないという感情を抱くことは止めようがない。

筆者も、『表現の不自由展』で展示された昭和天皇の写真を燃やす作品は嫌いであるし、長くサブカルチャーを愛好しているもののグロテスクな表現やスプラッター作品は嫌いだ。

しかし、そうした嫌いな作品は、見に行かないものとして無視する対象か、せいぜい低評価を付けて批判する対象に留めるべきである。

なぜなら、この社会は多様な人たちが生きている訳で、自分が好きな物を嫌う人もいれば、自分が嫌いな物を好く人もいる。自分が嫌いな物を排除することはそれを好く人の自由をも奪うことであり、行き過ぎた行為だからだ。

その作品をどの程度の人が平気なのかは誰にも測りようがない。従って、誰もが嫌うという先入観を抱かせる作品こそ排除しない努力をしなければ、どこかの誰かの自由を侵害することになるだろう。

筆者は昭和天皇の写真を燃やす作品は嫌いだが、その排除までは求めない。



万人にとって素晴らしい、という理想を芸術は背負っていない

「芸術作品とは万人にとって素晴らしい物であり、自分に不快感を与える作品は芸術に値しない」と思われるかもしれない。

しかし、芸術作品はどれも素晴らしいと思うのは、ピカソ(1881年-1973年)やフェルメール(1632年-1675年)など、有名な芸術作品の多くが何十年間、何百年間というフィルターを通した結果だからだ。

彼らの同時代には、数多くの無名アーティストが居たし、あっという間に忘れ去られた駄作も無数にあったはずだ。しかし、そうした駄作は長い歳月の中で淘汰されて、より多くの人が称賛する作品が後世に残っていった。

つまり、芸術作品は万人にとって素晴らしいのではなく、万人にとって素晴らしい芸術作品が残ったのである。残ったものを基準にして「芸術はかくあるべき」と話を展開するのは芸術の一部の話をしているだけで、芸術全体を網羅できていない。

「クール・ジャパン」などとして日本のサブカルチャーが外国で評価されているのは、エロもグロもナンセンスギャグもあるサブカルチャーの担い手に多くの天才たちが居るからだ。ある人を不愉快にする作品もあれば、国境を超えて愛される名作もあるのがカルチャーの世界なのである。

よって、自分が嫌いな作品を指さして「あんなもの芸術ではない」と言うのは、個人的感情の表明であって、芸術論としてはただの暴論だ。



表現の自由は無限に自由なのか? 検閲を禁止する日本国憲法

「表現の自由は無限に自由なのか?」と問われれば、筆者の解答は是だ。

日本国憲法は、表現の自由について次のように定めており、検閲を禁止している。検閲を禁止しているということは、表現に対する善悪は国家等による主導ではなく、国民の一人ひとりが各自で判断することを想定している。

(集会、結社及び表現の自由と通信秘密の保護)
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。


ただし、日本は法治国家の国である。そのため、刑法などで取り締まると定めた表現内容については検挙すべきで、表現の自由であっても法律を無視できる訳ではない。

刑法
(名誉毀損)
第二百三十条 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀き損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。


これは逆へ考えると、法律に触れないのであれば自由に表現して良いということになる。何処の誰かも分からない者が社会の保護者の様に振る舞い、自主規制などの制約をかけたり、表現のあるべき方向性を示したりすることもあるが、その正当性は大いに疑問だ。

筆者は『表現の不自由展』に関しても、外部から制約をかけることは不要と考えている。

最初から万人にとって素晴らしい芸術など存在せず、展示される作品が嫌いであれば見に行かなければ済む話で、中止を求めたり内容を変えさせたりする必要はないだろう。

内容が偏っていることへの批判は、別の立場から見た『真・表現の不自由展』でも企画すればよい訳で、立場が異なる あいちトリエンナーレに出展した実行委員会にやらせても良い企画展にはならないだろう。相手が表現の自由を行使してきたのだから、こちらも表現の自由を行使することでバランスをとることは可能である。



まとめ

『表現の不自由展』脅迫事件の容疑者は少女像が気に入らなかったようだが、少女像だけで脅迫行為に走る感覚が筆者にはよく分からない。

しかし、クリエイターたちが執拗な嫌がらせによって排除された過去の事例と照らし合わせると、そういう行動に出る人の存在は分かる。すなわち、自己の正義感を振りかざして他人の自由を踏みにじる人の姿だ。

改めて言うが、嫌いな作品は、見に行かないものとして無視する対象か、せいぜい低評価を付けて批判する対象に留めるべきだ。嫌いな作品を排除していく考え方は、ヘイト・クライムに通じる危険な考え方である。



後記 昭和天皇の写真だけで話を進めた理由

マスコミは、『表現の不自由展』を視察した河村市長の発言もあってか、少女像に注目を集めた。しかし、筆者の感覚では少女像はあまり重要とならないため、本編では昭和天皇の写真だけで話を進めることにした。


理由の1つは、少女像に真新しさはないこと。韓国人や在外韓国人が活発に各地で設置してきたため日本人にとっても見慣れた像であり、『表現の不自由展』で1体増えても、インパクトはないと筆者は思っている。

支持派は「日本がやったことを忘れるな」と思うだろうし、不支持派は「いつまでも日本を悪く言って腹が立つ」と思うだろう。しかし、あの少女像をきっかけに、両者の間で今さら転向が起こるはずもなく、それぞれに各自の立場を再確認させる作品にしかならない。


もう1つの理由は、GoogleTrend の結果を見て、炎上のきっかけは昭和天皇の写真の件が周知されたことと筆者は推測しているからだ。


あいちトリエンナーレに少女像があることは、7月31日に百田尚樹氏が触れているのだが、その時点では大した影響は見られない。


あいちトリエンナーレの話題が急に増えるのは、8月2日0時からその日の朝にかけてのことだ。実は、8月1日22時にインフルエンサーでもある和田政宗参議院議員が昭和天皇の写真の件に言及しており、これが8月2日朝に飛び交った著名人たちの反応につながっていく。


見慣れた少女像と一般にはあまり知られていなかった昭和天皇の写真を燃やす作品とを比較した場合、より大きな反応を呼び起こしたのは昭和天皇の方であろうと筆者は見ている。(了)






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