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芸能人逮捕で販売自粛を求めるリンチよりも、”贖罪のために稼ぐ道”を残す方が重要

※この記事は、無料で最後まで読めます (3/28 加筆修正)。

新井浩文容疑者やピエール瀧容疑者の逮捕を受けて、彼らが関わった作品が販売自粛や公開中止を迫られている。各企業としては”正義”を訴えるクレームに対して、ダメージを抑えざるを得ないのだろう。

しかし、筆者は、そうしたクレームによる私的制裁 (リンチ) に疑問を感じている。

 ・その私的制裁と、法に基づく刑事罰との関係性はどうなのか?
 ・仮に私的制裁を認めるとしたら、刑事罰に存在価値はあるのか?
 ・刑事罰+私的制裁と何度も制裁を加える社会は健全なのか?
 ・一般人が抱いた”正義感”を通す私的制裁は、被害者救済になるのか?

先に断っておくが、筆者は「加害者の権利を守ろう」という話をしたい訳ではない。

筆者が重視しているのは、被害者が受けた被害の回復であり、その実現のためであれば加害者の権利制限は仕方がないと考えている。


国が加害者に求めるケジメは法律で決まっている

国が、加害者に求めるケジメは、あらかじめ法律によって決められている。

仮に新井浩文容疑者やピエール瀧容疑者が有罪となった場合には、それぞれ法律に基づいた刑事罰が下されるだろう。

刑法
(強制性交等)
第百七十七条 十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、肛こう門性交又は口腔くう性交(以下「性交等」という。)をした者は、強制性交等の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の者に対し、性交等をした者も、同様とする。

麻薬及び向精神薬取締法
(コカイン所持等)
第六十六条 ジアセチルモルヒネ等以外の麻薬を、みだりに、製剤し、小分けし、譲り渡し、譲り受け、又は所持した者(第六十九条第四号若しくは第五号又は第七十条第五号に該当する者を除く。)は、七年以下の懲役に処する。
2 営利の目的で前項の罪を犯した者は、一年以上十年以下の懲役に処し、又は情状により一年以上十年以下の懲役及び三百万円以下の罰金に処する。
3 前二項の未遂罪は、罰する。
※ジアセチルモルヒネはヘロインのことで、コカインはそれ以外の麻薬


日本は憲法によって、どのような行為を犯罪とするのか、その犯罪を裁く時にはどのような刑事罰を下すのかを、あらかじめ法律で明確に決めることにしている国家だ (罪刑法定主義)。

よって、法律に定めのない制裁は、すべて私的制裁 (リンチ) でしかない。

日本も江戸時代までは、公開処刑という形で一般庶民が処刑に関与することがあった。しかし、今の日本に刑事罰へ市民が参加する制度は存在しない。

日本国憲法
第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

第三十九条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。



加害者に危害を加えれば、当然に処罰される

例えば、被害者参加制度を利用して裁判に出席した被害者や被害者遺族が、刑事被告人に襲いかかったらどうなるだろうか?

2009年の横浜地裁小田原支部で実際に起こった事例では、特に被害がなかったため、所轄の地検は刑事罰に問わなかった。しかし、もし被告人にケガを負わせていたら、刑事事件として扱わざるを得なかっただろう。

これを「当事者による報復は仕方がない」としてしまっては、法や裁判は不要のものとなってしまう。

では、仮に、事件とは無関係な第三者が被告人に襲いかかったらどうだろうか?

被害者自身や被害者遺族なら情状酌量の余地もあるだろうが、無関係な第三者の場合は単なる犯罪者だ。市民は、裁判員に選ばれて裁判に関わることがあっても、被告人を殴る権利は持っていない。

もし被告人の行いを見て正義感に燃えたのであれば尚のこと、事件に対しては、裁判による刑事罰を見届けるような適切な距離感を保つべきだろう。勝手に被告人を殴るのは、ただの悪事でしかないのだから。

では、「逮捕されたヤツが出ている物を店に並べるな」と訴えることに、どの程度の正当性があるのだろうか? ましてや、推定無罪の原則が生きている容疑者の段階で、出演作品の撤去を求めることは正義に叶うのだろうか?



販売自粛を迫ることは正義に叶うのか?

芸能人の逮捕に応じて、当該芸能人が関わった作品の販売自粛がなされるというのは、最近始まったことだ。

最近というのは、1987年に起きた尾崎豊氏の覚醒剤所持による逮捕では、特に作品の販売自粛の動きは見られなかったからである。しかし、1999年に槇原敬之氏が覚醒剤所持によって逮捕されると、判決が出る前に作品の自主回収と出荷停止の措置がとられた。

「販売自粛を求めるのは私的制裁ではなく、社会的制裁だ」という方々も居られるとは思う。

しかし、それならば、2017年にメンバーの一人が大麻吸引で逮捕・有罪判決、2019年に別のメンバーが売春斡旋の容疑で立件された BIG BANG のソフトが売られ続けるのは何故なのか?

この「やったり、やらなかったり」という基準の曖昧さ、仮にやらなかったとしてもそれで済んでしまう不徹底こそ、販売自粛の訴えが私的制裁でしかない証拠だ。

徹底しないことで生じる不公平を見過ごすような制裁なら、新たな不公平が生じない分だけ、やらない方がマシだと筆者は考える。


・出演作品の封印は被害者への寄り添いなのか?
例えば新井容疑者の件で言うと、被害者は、自分への理不尽に立ち向かうことを決意できた方だ。

このように自立した被害者に対して、「あれは不快ですよね。これも不快ですよね」と、社会が率先して先回りすることは過剰反応ではないのか?被害者には身内の方々も居られるはずで、社会が皆でやらなくても、被害者は不快に思う作品を避ける力を十分に持っておられるだろう。

筆者の目には、この「作品を皆で封印してしまおう」という動きは、被害者の力を過小評価し、何もできない人に仕立て上げているように見える。そしてその姿は、被害者への寄り添いではなく、「自分はいい人ですよ」というアピール合戦にしか見えない。


・事件に関して部外者である私たちの領分
被害者が受けた被害はあくまで被害者本人のものであって、その事件に関して私たちは部外者という立場にいる。

被害者に感情移入したとしても、被害者と部外者との間には、軽々しく超えるべきではない境界線があるはずだ。その境界線を超えて、被害者の気持ちへ勝手に同調することは、被害者の人格を無視した行為ではないか?

もし被害者から「手を貸して欲しい」と言われたのであれば、その時は躊躇なく手を貸せば良い。

誰か、支援を求める声を聞いたのだろうか? そうした声も無いのに、断りもなく被害者を保護する壁を作り上げることは、最早、「かわいそうな被害者を自分の庇護下に置いて、被害者の上を取ろうとするマウント」だろう。


・ほかの作品関係者の権利が軽視される理不尽
被害者の権利が重視される一方で、事件と関わりのない数十人、百数十人という関係者の権利を軽視するのは理不尽な侵害行為だ。

一般に、トラブルが起きると加害者と被害者という関係が生まれるものの、トラブルとは、両者の間で折り合いが付ければ解決となる問題である。当事者間で終結することが可能な話に、事件とは関わりのない他者を巻き込むことは避けるべきだ。

被害者は自身の被害回復を求める権利を確かに持っているが、事件とは関わりのない人たちにも自身の活動を続ける権利がある。これは、どちらか一方を立てるともう一方が立たなくなるという関係にはない。

被害者の被害回復を図りつつ、事件と関わりのない人たちの権利を保護することは可能なはずだ。


・被害者の被害回復は賠償請求で対応できる
被害者が受けた被害の回復は、不法行為に基づく損害賠償請求で対応が可能である。

民法
(不法行為による損害賠償)
第七百九条 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

(財産以外の損害の賠償)
第七百十条 他人の身体、自由若しくは名誉を侵害した場合又は他人の財産権を侵害した場合のいずれであるかを問わず、前条の規定により損害賠償の責任を負う者は、財産以外の損害に対しても、その賠償をしなければならない。

加害者が芸能人であった場合、他事例との公平性の問題はあるものの、将来にわたって加害者の顔に遭遇し得る精神的苦痛の分を、慰謝料として上乗せすることを認めてよいのではないだろうか?

また、賠償金の支払いを考えれば、加害者の支払能力を下げることは被害者にとって不利益となる可能性がある。作品の販売自粛といった加害者が稼ぐ機会を奪うことは、被害者にとってプラスになるとは限らないのだ。

発生したトラブルについては当事者間で折り合いをつけることこそ第一であり、社会はそれを支えるものだと筆者は考えている。



非公式な社会復帰妨害は、被害者にとっても不利益

新井浩文容疑者は5億円以上、ピエール瀧容疑者も10億円以上の違約金が発生するとも言われている。また芸能人に限らず、交通死亡事故によって5億円の損害賠償の支払いが認められたケースもある。

では、この高額な損害賠償や違約金は、どう払うのであろうか? 大卒サラリーマンの生涯賃金が3億円と言われる日本において、5億円や10億円という数字は、社会復帰が出来たとしても払いきるのは困難な額だ。

払いきれない損害賠償請求の判決文や違約金請求書など絵に描いた餅であり、被害者や関係者が受けた被害は何も回復しない。


・賠償金や違約金は、課した以上は払わせるべき
もちろん、犯罪で生じた被害の中には、金銭で元に戻せないものもある。

しかし、それを何とか金銭という形で折り合いを付けようとする仕組みが損害賠償請求だ。裁判所が被害者からの請求を認めて支払いを命じたのであれば、加害者にはしっかり払ってもらう必要があるだろう。

また、違約金の請求も、発生した損失の補填や、違法行為の抑止といった意味が存在する仕組みだ。払われることなく踏み倒されるケースが増えることは、契約に違約金の取り決めを盛り込む商慣習を無意味にしてしまう。

賠償金や違約金を課した以上は、しっかりと払わせるべきなのだ。

しかし、何らかの犯罪によって賠償金や違約金が発生した場合、加害者は前科者となるだろう。

つまり、賠償金や違約金を機能させるには、前科者の社会復帰は避けて通れない問題となってくる。


・前科者の社会復帰は、被害者救済のために必要
仮に前科者の社会復帰を許さないのであれば、極端な話、その者は生かすべきではないだろう。

社会復帰を許さなければ日々の生活費も稼げずに、払える当てもない賠償金や違約金を抱えたままで、残りの寿命が尽きるのを待つだけとなる。まさか、加害者自身の臓器を切り売りさせて金を稼がせる訳にもいくまい。

刑事罰を済ませた後も、前科者をそうした境遇に放置する社会は明らかに不健全だ。生かす以上は、社会復帰もセットでなければならない。

ホリエモンこと堀江貴文氏のように前科を自力で跳ね飛ばせる人物は少ない訳で、前科者の社会復帰には支援も必要になるだろう。

もし、加害者が社会復帰できなければ生活保護支給も考えざるを得ない。行政としては法の下の平等から特にペナルティ無しに審査をすることになる訳だが、前科者を生活保護で養うというのも、それはそれで納得が難しいのではないか?

生活苦は、窃盗などの再犯につながることもある。つまり、前科者にはきちんと社会復帰をしてもらった方が、社会はより安定したものになるはずだ。


・2級市民という身分を公式につくる可能性
日本が、刑事罰を済ませていようとも、一度犯罪に手を染めた前科者を許せない社会なのだとしたら、2級市民という身分を公式に作るべきだろう。

前科者が対等な市民として戻ってくることを認めず、非公式に「もう、あなたの居場所はありません」という私的制裁を続けるよりも、社会のあり方としては明瞭になる。

今時、被差別階級を作り出すことは時代錯誤だと承知している。しかし、前科者を差別しないのは建前だけで、実際は前科を問わない奇特な経営者以外に彼らを救済する人が居ない陰湿な社会も、健全さからは程遠いだろう。

ならばいっその事、法律によって公式に2級市民を作り、前科者を対等に扱わない社会を認めてしまった方が良いのではないだろうか?

そう考えるほど、刑事罰を済ませた前科者の社会復帰への道は狭い。

前科者の社会復帰を指摘すると、犯罪に手を染めた人と、犯罪に走らなかった人との差があるのは当たり前と主張する方々も居る。しかし、法による刑事罰を済ませた後も、彼らを対等に扱わない私的制裁が温存されるのであれば、法による刑事罰がその意義を失ってしまう。


・賠償金や違約金の支払いを“被害回復“として評価する必要性
賠償金も違約金も、加害行為がなければ発生しなかった被害について、金銭による回復を図るものだ。加害者が被害者に対して賠償金や違約金を払っていく行為を、社会的にも、きちんと評価する必要があるのではないか?

中には、加害者と被害者の決裂が決定的で、賠償金の支払いすら拒否される事件もあるかもしれない。しかしそういった事件では、被害者に同調して被害回復の機会を奪うのではなく、加害者が支払う賠償金を犯罪被害者支援団体などで預かるといった被害回復の選択肢を増やすことこそ、部外者である社会の役割だろう。

事件に巻き込まれて息子夫婦を失い、遺された孫を引き取ることになった場合などを想像して欲しい。生活保護など公的に支援することもできるが、その孫の成長に必要な資金は息子夫婦が工面するはずだったものであり、それを補う第一責任者は加害者だと考えるべきではないだろうか?

つまり加害者には、被害者に負わせた被害の回復のために稼いでもらわなければ困るのだ。

「加害者が稼ぐのは許せない」という素朴な感情は分からなくもない。しかし、加害者が稼ぐことの邪魔をすればするほど、被害者の被害回復は遅れていく。

贖罪のためにも、加害者には金を稼ぐ道を作る必要がある。

コカイン使用のように、直接的な被害者が居ない場合であっても同様だ。違約金などが発生しているなら払わせるべきだし、金を稼げれば薬物依存治療支援団体への寄付を約束させるといった工夫も可能だろう。



当事者ではない者によるリンチの正体は何なのか?

当事者ではない者が行う私的制裁 (リンチ) は、加害に対する報復でもなければ、被害の修復でもない。

被害者Aと加害者Bがいるトラブルが生じた後に、私的制裁を訴えてBを殴る者が表れたとしたら、それはBに対する加害者Cが新たに発生しただけである。

Bに対する報復はAが行うものであって、どこからともなく表れたCがやることではない。もちろん、CがBを殴ったところで、Aが受けた被害は何も回復しない。

当事者間で終結させることも出来たトラブルに新しい争点を付け加えて問題点を拡散し、トラブル解決に向けて社会が支払うコストを増大させた上で、加害者に強く当たる自分を”いい人”として位置づける。

結局、声高に私的制裁を訴える人たちは、容赦なく叩ける犯罪加害者を見つけて“いじめ”を始めたに過ぎない。それは、部外者の領分を逸脱した行為である。



まとめ

新井浩文容疑者の件にせよ、ピエール瀧容疑者の件にせよ、熱心に販売自粛を支持する方々を見かけた。

では、その方々は、1986年にフライデー襲撃事件を起こしたビートたけし氏をいつ許したのだろうか (編集部員5名が負傷、住居侵入・器物損壊・暴行の罪で懲役6か月、執行猶予2年の有罪判決)。

 ・事件から7ヶ月間の謹慎後、テレビに復帰した1987年か?
 ・バイク事故で大怪我をした1990年か?
 ・ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞をとった1997年か?

個人的に、どこで許したかによって人間性が出る事件だと思っている。

加害者よりも被害者に同調したり、加害者の行為を憎んだりすることは、人として素直な感情だと筆者も思う。

しかし、その素直な感情で突っ走るのであれば、刑法や裁判は不要なものだろう。気の済むまで加害者を殴った方が、中の様子が見えない刑務所に送ったり、謹慎されたりするよりも処罰感情は分かりやすく解消されるはずだ。

いまの社会は、法によって人を裁くという仕組みを作った。

法は、気の済むまで加害者を殴る野蛮さから脱却するためにあり、社会は、怒りで冷静さを欠く当事者とは異なる視点から、被害の回復までを考慮した支援をするためにあるのではないだろうか?

筆者は、賠償金や違約金を加害者に払わせることを考えるのが社会の役割だと考えている。したがって、加害者から稼ぐ機会を奪う販売自粛には反対の立場をとる。(了)



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