見出し画像

新元号が「令和」に決定 よき、和らいだ時代になることを願う

※この記事は、最後まで無料で読めます

来たる4月30日に今上天皇陛下の「退位礼正殿の儀」が行われて、翌5月1日に皇太子殿下が「剣璽等継承の儀」に臨まれて新天皇へ即位される。

新天皇即位にともなう改元はその5月1日に行われることになっており、去る4月1日に新元号は「令和」となると発表された。


「令和」の出典は、日本最古の和歌集『万葉集』から

新元号の選定に関しては、以前から、漢籍にこだわることなく日本古典などの国書から選ぶこともあると報じられてきた。そして、実際に選ばれた新元号は、万葉集を出典とするものとなった。

詳しくは、万葉集・第5巻にある梅花歌の序文であり、この序文を書いたのは大伴旅人※ではないかと言われている。

梅花歌卅二首并序
天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也
于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

梅花の歌三十二首并せて序
天平二年正月十三日 師の老の宅に萃まりて、宴會を申く也
時に、初春の令月にして、気よく風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す


「令和」が令をとった令月は、何事をするにも良い月という意味であり、令嬢や令息、令名などに見られる「よい」と訓読みする令である。もう一方の和は、やわらぎと読む和であり、おだやかな状態を指す。

つまり、新しい時代が「よき、和らいだ」時代になることを願う元号と解釈される。

一部では、令は命令や司令と読めるもので、政府による統制強化を示しているといった話が展開されている。

文字1つを様々に読めることは、言葉の持っている豊かさの証明ではある。しかし、その出典が明らかになっており、出典上での意味も明確である以上、解釈でケチをつけるのは曲解でしかなく、筆者は感心しない。

この点、「令和」を「"rei," which can mean auspicious in traditional texts, and "wa" meaning peace.」と訳した米国のウォールストリートジャーナル紙や、「"fortunate" or "auspicious", and “ peace” or “harmony.”」と訳した英国のガーディアン紙の方が、同じ文字でも使い方によって意味が変わる漢字の性質をよく理解している。

※大伴旅人(665年─731年)・・・大伴氏は古来より軍事を担ってきた一族であり、旅人も、隼人の反乱(720年-721年)では征隼人持節大将軍として平定にあたっている。728年から長官として太宰府へ赴任。その後、京で大官が次々と没したため、730年、旅人が舎人親王に次ぐ臣下最高位となる。大納言に任ぜられて帰京し、翌731年に薨去。最終官位は大納言従二位。


『万葉集』の成立は、遣唐使が派遣されていた時代

万葉集は、天平文化の頃に成立した日本最古の和歌集で、天平宝字3年(西暦759年)までの約130年間で詠まれた歌が収められている。

天平宝字3年(西暦759年)から130年前というと、ちょうど遣唐使が始まった頃のことである。

・第一次遣唐使・・・630年出発・632年帰国
・第十二次遣唐使・・・752年出発・754年帰国
※20回説を引っ張ってきたが本筋ではないため詳細は割愛


隋を滅ぼして大陸の覇者となった唐は、シルクロードを通じて遠くアラビアとも交易をする時代の最先端を走っていた国だ。当時の日本は、そんな唐に優秀な人材を派遣することで、その技術や文化を学んでいたのである。

実際、唐の律令制度に倣った大宝律令の成立(大宝1年、701年)や、碁盤の目のような条坊制を取り入れた平城京(和銅3年、710年)など、日本は大陸式の制度を吸収している。

また、遣唐使が持ち帰ってきた多くの文物は日本に影響を与えており、唐風や仏教風の文化が広がっていく。唐招提寺金堂や正倉院宝庫、興福寺の阿修羅像などもこの時代のものだ。



『万葉集』は、唐から大いに学んだ教養人による歌集

万葉集が成立した時代は、律令制度など政治における最先端が唐であったように、文学においても唐が最先端だった。

「令和」の出典となった梅花歌序文も、当然、その影響を強く受けている。

まず、梅花歌序文は、当時太宰府長官だった大伴旅人の邸宅に、山上憶良など32人の歌人が集まって開いた梅花宴の様子を書き記したものだ。そして、この梅花宴自体が、東晋の書家・王羲之が『蘭亭集序』に書いた41人の文人が集まって催した詩宴に倣ったものである。

次いで、梅花歌序文の「于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香」は、四字と六字をもとに対句表現を用いた四六駢儷体になっている。中国の南北朝時代から唐の時代まで流行したもので、遣唐使などを送っていた日本にも輸入された。

ここで、万葉集をさらに詳しく知るため、江戸時代の国文学者・契沖による万葉集の注釈書『万葉代匠記』を見てみる。

『万葉代匠記』の画像化データが国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているため、興味のある方は、この項の終わりのリンクから見に行っていただきたい。

さて、先ほど、この梅花宴が『蘭亭集序』に倣った催しであることに触れた。そのことを示すように、梅花歌序文の「天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也」という箇所は、『蘭亭集序』の次の箇所をなぞっている。

永和九年 歲在癸丑 暮春之初 會于會稽山陰之蘭亭 修禊事也
『蘭亭集序』王羲之


また梅花歌序文の「于時初春令月 氣淑風和」について、契沖は、以下の漢籍を出典に使っていると指摘する。

於是仲春令月 時和氣清 『帰田賦』張衡
是日也 天朗氣淸 惠風和暢 『蘭亭集序』王羲之
淑氣催黄鳥 『早春遊望』杜審言


このように、幾つもの出典を踏まえて表現することは、現代でも見られる。

具体的には、映画監督が欧米映画を踏まえたシーンを入れたり、ミュージシャンが欧米文学や映画を下地とした楽曲を作ったりすることがある。外国の名作に載せることで表現はより洗練されたものとなり、解る人へは下地とした作品の世界観を加えてより深くイメージが伝わる表現手法である。

現代では欧米作品が出典として使われることが多いが、天平文化の頃は漢籍を出典に使っていたのである。

国立国会図書館デジタルコレクション 万葉集代匠記. 第2輯
国立国会図書館デジタルコレクション 契沖全集. 第2巻 万葉代匠記



日本で最初の改元は、めでたいことがあったから

ここからは、改元についての話。

新天皇の即位とは新時代の始まりであり、めでたいことである。しかし、かつての日本は、新天皇の即位以外でも改元を行っていた。

そもそも日本で元号が使われるようになったのは西暦645年のことで、日本初の元号は「大化」と定められた。大化の出典は、「肆予大化誘我友邦君」『書経』など。

しかし、この大化はわずか6年で「白雉」へと改められる。その理由は、穴門国(後の長門国、山口県西部)の国司であった草壁醜経が、麻山で生け捕りにした白い雉を孝徳天皇に献上したためだ。

古来より白い動物はめでたい物として扱われるが、この白い雉も瑞祥とされた。瑞祥は統治者の徳に応えてあらわれるものであり、白い雉の出現は、孝徳天皇が徳の高い天皇であることを示している。

白い雉の献上は盛大に祝われ、日本で最初の改元が行われたのである。ちなみに、白雉の出典は「元始元年正月越裳氏、重訳献白雉」『漢書』。

次の元号である「朱鳥」の前後には元号を定めない空白期間があったものの、「大宝」以降は慶事による改元が続いている。

・大宝(701年─704年)・・・対馬国から金が献上されたため
・慶雲(704年─708年)・・・西楼上に慶雲を見た瑞祥
・和銅(708年─715年)・・・武蔵国から和銅が献上されたため
・霊亀(715年─717年)・・・元正天皇の即位。瑞亀が献上された瑞祥
・養老(717年─724年)・・・美濃国で美泉を見た瑞祥
・神亀(724年─729年)・・・白い亀を献上された瑞祥
・天平(729年─749年)・・・背に「天王貴平知百年」とある亀が献上
              された瑞祥
 (中略)

・元慶(877年─885年)・・・陽成天皇の即位
              白雉・白鹿献上の瑞祥による改元
・仁和(885年─889年)・・・光孝天皇の即位
・寛平(889年─898年)・・・宇多天皇の即位



醍醐天皇以降、凶事を断つための改元に変化

飛鳥時代から奈良時代まで、日本では慶事による改元が行われていた。しかし、醍醐天皇の時代にこの慣習が反転する。

醍醐天皇が即位した時(898年)、元号は「昌泰」に改められる。新天皇の即位による改元自体は奈良時代から始まっているため、これは先例通りである。

しかし、昌泰4年(901年)に、菅原道真を大宰府に左遷する昌泰の変があったこと、同年は王朝交代が起こるとされる辛酉革命の年に当たることから、元号を「延喜」に改めることとなった。凶事や予想される凶事を避けるための改元は、これが初である。

ところが、その延喜年間は自然災害や疫病に悩まされることとなり、延喜32年(923年)に皇太子の保明親王が薨去したのを受けて、ついに「延長」へ改元された。

以降、江戸時代が終わるまで、新天皇の即位による改元と凶事を断つための改元が続いていくことになる。

・承平(931年─938年)・・・朱雀天皇の即位
・天慶(938年─947年)・・・厄運や地震などの凶事を断つ御慎を
              朱雀天皇が行ったため
・天暦(947年─957年)・・・村上天皇の即位
・天徳(957年─961年)・・・洪水や旱魃、飢饉などのため
・応和(961年─964年)・・・辛酉革命、御所火災のため
・康保(964年─968年)・・・甲子革令、旱魃などのため
・安和(968年─970年)・・・冷泉天皇の即位

 (中略)

・弘化(1845年─1848年)・・・江戸城火災などのため
・嘉永(1848年─1855年)・・・孝明天皇の即位
・安政(1855年─1860年)・・・内裏炎上、大地震、黒船来航などのため
・万延(1860年─1861年)・・・江戸城火災や桜田門外の変などのため
・文久(1861年─1864年)・・・辛酉革命による改元。
・元治(1864年─1865年)・・・甲子革令による改元。
・慶応(1865年─1868年)・・・禁門の変や社会不安などのため



まとめ 改元の変遷について

あらためて元号を調べていて興味深かったのは、慶事改元から凶事改元に切り替えた醍醐天皇だ。

延喜年間(901年─923年)は菅原道真の怨霊に悩まされているが、怨霊による祟り自体は、暗殺事件の連座に抗議して延暦4年(785年)に憤死した早良親王の例もあった。醍醐天皇が辛酉革命までを気にして凶事改元に踏みきった決め手は、一体、何だったのだろうか?

その後、凶事改元が定着していくのは、ある程度の想像がつく。

醍醐天皇による改元が先例となったこと、そして、藤原摂関家の隆盛から武士の台頭へと時代が移り変わっていくことが原因だろう。

公家や武家が中央政界で実権を握るには高い位や役職を得なければならないが、その力の源泉は地方で抱えている荘園や領地にある。中央政界に居る人々にとって、御所でめでたいことがあったという話よりも、荘園や領地の経営状態の方が重要な話になっていくのである。

つまり、天皇の徳を称賛することよりも、大雨や疫病などで被害を受けた領地に対する問題解決が強く求められるようになっていく。しかも、時代が進むほど復旧のための実務は公家や武家に移っていく訳で、改元もその延長で考えられるようになったものと想像している。


まとめ 令和の出典論争について

個人的に、「令和」の出典論争はバカバカしいと思っている。

万葉集が成立した頃は、唐こそが時代の最先端であった。当時の日本の文化人たちも、どれだけ多くの漢籍が頭に入っているか、どれだけ巧みに漢籍表現を使いこなせるかで、互いの教養を測り合っていたはずだ。

特に万葉集は、作品の主題や成立事情を書き記す題詞を漢文で書いており、当然、そこでは漢籍を出典に使った表現が繰り広げられる。むしろ、漢籍を踏まえなければ三流以下の扱いとなり、万葉集が後世に残されることはなかっただろう。

だからと言って、万葉集が、漢籍よりも下になる訳ではない。あくまで万葉集の中心は、それを書き記した者の創造性にあり、漢籍はそれを支えるために使われた裏方という位置付けだ。

万葉集をまとめようとしない限り、その出典も使われることがない訳で、万葉集という作品における両者の主従関係は明らかである。

また、この主従関係を認めても、出典側の価値が毀損されることはない。実際、万葉集の出典になっていてもいなくても、王羲之による『蘭亭集序』が書道史上最も有名な書であることに変わりはないからだ。

そうした関係を無視して、万葉集を飛び越えて、「『帰田賦』こそ、令和の出典だ」と主張するのは筋が通っていない。

「令和」の出典は万葉集とするのが素直な考え方であり、『帰田賦』や『蘭亭集序』などの漢籍は、万葉集がより高く、より豊かに成るように作品を支えているものである。


↓ ↓ ↓ お代をいただいた方への謝辞です ↓ ↓ ↓ ─────────────────────────────────

ここから先は

33字

¥ 100

つたない文章を読んでいただき、ありがとうございました。サポートいただけると喜びます。