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『立ち止まる力』

先に言っておくと、うたがわきしみのファンなら知っている「立ち止まりパンダ」の話ではない。

立ち止まりパンダとは、通常、客寄せパンダとして客を“立ち止まらせる”役割のパンダが、逆に何かに惹きつけられて、じっと立ち止まって我を忘れている状態になっているときをさす。

それは置いておいて表題の件、松本人志なんかはすごくあるねえ。普通に生きていても「あれおかしない?」ってしょっちゅう笑いにして突っ込んでる。キム兄こと木村 祐一も木村ボヤキ堂であちこちで気になる場面で立ち止まっては傑作写真をとり、突っ込んで笑いにしてる。

ちなみにひなたのしずくのしずくさんも、まあシャイで人前にはほぼ出ないで、わしと似てるんだけども、けっこう立ち止まる。それも、人が気にしないようなところで、気になって、しかもそれ見つめる視線がななめよみというか、うがった見方でひねくれていて実に面白い。彼女の立ち止まる力も私はとても好きだ。

僕はどっちかっていわなくても根は真面目なので、もっと直截的に「それおかしない?」って思ってしまうんだけど、そのエネルギーはけっこう強い方なのではみ出すことも多い。

例えば電車の空調には毎日かみついてる。「あれ、あつない?」ほんまに。僕は暑がりだから正直めっさしんどい。ぶっちゃけ脱いでTシャツ一枚になるくらいだ。みんなどんだけ寒がりやねん。窓がみんなの体温で濡れて曇ってるくらいなのに冷房をいっこうに強めないってどういうことやねん? こっちは汗だらだらなんじゃボケー! 言うてますねん(関西の方いたらごめんねエセで)

この兼ね合いは最近の一連のnoteコメント騒動とも通底する(もっともわしの一人相撲だが)。わし――(僕を使うきしみと、わしを使うきしみと、あたしを使うきしみとがいるが、まあそこは気にしないように。気にしても切りがないので)――には暑いけど、ほかの人にはそうでないから、そうなってるんだろうけども。

これはいったい誰の適正温度やねん!><ってなるやん。ほんまにこれ、全員の最大公約数をはかった温度なんか?って。

や、すべてを最大公約数的にならしていくことの功罪はちょっと別問題だからそこは置いといてほしい。

少なくともあたしには耐えがたいほど暑いんだけど、あたしだけが暑い暑いと騒いでも世の中は変わらないし、あたしがはみ出しただけで終わる。

会社もそう。11時出社だったのが、社長の鶴の一声でいきなり10時出社になって、みんな文句も言わずに従ったんだけど。わしは片道1時間半かけて通ってるので、一時間ずれるだけで、めっさ満員になるし、それだけで疲れるし、やめてほしかった。それにしばらくリズムが狂って、自律神経失調症にもなった。それで落ちこぼれ社員になって、10時半出社を許すかわりに給与もばかすか引かれた。

抵抗すると、「遠い近いは関係ない。ディズニーランドに集合するなら、どんなに遠くても早くても間に合わせるだろう」「会社をディズニーランドと思えば、遅刻する方がおかしい。時間が10時になったならそれに合わせるのが普通。正社員なんだから」と。

いや、わかるけども。その理屈では正直納得できん。こんな会社がディズニーランドに思えるわけないやろ。唯一いいと思うところは箱ティッシュをタダでいくらでも使っていいってところ(花粉症には助かるのよ)。

結局、あたしはこの会社とは折り合いがつかなくなって、転職することになったけど、ほんまにせいせいするわ。もっと早く出ればよかったけれど。それでもここにいた7年があったから実力を付け直せて大手に返り咲けたのも事実だから、感謝せにゃならんのだろうな。

(閑話休題)

やっぱりさ、すぐに右ならへってできないのよ。それほんまに正しいの? 自分にはすごく窮屈なんだけど、って感じられること。立ち止まって見つめられることって大事だと思う。

将棋とかチェスとかにはルールがあるでしょ。あれは紀元前3世紀ころのインドに起源があるようだけども。見ての通り果てしない歴史があって洗練されて今のルールがあるわけだよね。だから、あらゆる試行錯誤の積み重ねがあって、今のこれがバランス的にも普遍的だってレベルにまで到達してると思う。

だから、そこまでいったものであるならば、そのルールの中で黙って戦うのもわかる。限りなく平等に近いルールの中で自分らしく戦えばいいと思う。でもnoteなんてまだまだこれからいくらでも洗練させていかなきゃいけない歴史の浅いものでしょう。だからもっと立ち止まって、暑い! だの、寒い! だの、声をあげてもいいんじゃなかな、と思う。

その前にまず、何でも上から下へおかみが言った通り鵜呑みにするんじゃなくて、これって本当に正しいのかな? と立ち止まる意識を持ってもいいんじゃないかな。

話はちょっとそれるけど、昔、オウム真理教のドキュメンタリー映画を撮ってた監督だと思うけど、その人が確か、こうだよね、ってくくるのは簡単だけど、立ち止まって本当にそうか? と見つめることが大事、みたいなこと言ってて、忘れられない。オウム真理教が大量殺人をしたのは事実だし、最悪な宗教だとは思うが、そこに集っている人たちをひとくくりに、おまえたちはこうだ!ってくくらないで、そこで本当に何が起きていたのか、タブーだろうと何だろうと立ち止まって、くくらないで、見つめていく勇気、ぼかぁ大事だと思うなあ。

てか、何かに「立ち止まれる力」「くくらないで見つめる力」ってのは、ある種の表現者にとって必須の要素なんじゃないかと思う。

ともあれ、コメントを激しく打たないかわりに、こんなものを打ち込んでみたよ。エネルギーをここで使えば、コメントに使う気力を分散できるでしょう。できないか。そうか。

追記:ちなみに高橋源一郎は作家になるために必要なことは、まず「つかまえること」ってどこかで言ってた。自分にしか見えない風みたいなものだと思うけど。それをつかまえて、仕立てて、みんなに物語として披露するわけだ。その初動にあるのは「つかまえること」なんだよね。ここで言うてきたこととも通底してるけども。

水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。