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『ガンジス川で3歳の頃考えていたこと』

インドの聖地バラナシを流れるガンジス川。
観る人が観たら、業を洗い、人の生死まで司る神秘の川。
しかしまた観る人が観れば糞と小便と死体が流れてくる病原菌の塊みたいな川。

日本人で入る人は少ないだろうが、インド人なら死ぬまでに1度はここで沐浴したいと願ってやまない聖なる川と言われ、実際、日々大勢の人々が沐浴に訪れている。

観るレンズが違うだけで世界の眺め方は180度変わり、それによって世界の受け取り方が変わり、生きてる日々の実感もそれぞれに異なってくるのは至極当然の道理である。

もっと卑近でシンプルで強烈な法則がこの世にはあると、3歳の私は気が付いていた。ガンジス川をウンコ扱いして眺めるように、自分をゴミ以下のウンコだと意識無意識問わず思って眺めている人間は、命自体をゴミ屑みたいなものと観てしまっているため、他人を眺めるときもどうでもいい汚物に見えてしまう。

「自分を見る目=他人を見る目」である。

これは精神の領域にちょっと分け入れば誰でもわかることだし、ものの本にも(行き届いた精神科医の本なら)触れていることだ。命の尊厳と一口にいっても自殺大国の日本では、それを実感として掴ませるのはなかなかに困難だ。

向こう三軒両隣のコミュニティがあった時代は流れ去り(お父ちゃんお母ちゃんが喧嘩が絶えないやばい生育環境でも、隣のおじちゃんがうちに来んしゃい!とか、ジジババのところとか、優しい逃げ場があり、おっぱいだって赤の他人のおばさんからもらえてた。その優しさで基本的信頼が育めもした時代があった。時代は遡れはしないけど)、飽食の時代で幸福の価値観は多様化し、なにが幸福なのかもわかりにくくなった挙げ句、核家族化が進んだ共働きの親たちは赤子の自己肯定感すら担保できない状況に陥った。

3歳半になる頃、ガンジス川を眺めながら私はそんなことを想っていた。その思索の道すがら、ふと「人間とはどこに存在しているのか」を考えた。

人には様々な顔がある。家族親戚に見せる顔。同僚に見せる顔。先輩後輩に見せる顔。友達、親友に見せる顔。それぞれまったく違う顔だが、すべて同じ自分でもある。いったいどれが本当の自分なのか。無論、全部本当の自分だ。

人は完全に独立して屹立できる存在ではないらしい。人と人との間にのみ、自分という人間が都度、宿るのだ。

なれば我々は、自分を大事に見つめるように、関わる人をも温かく見つめるべきだったのではないか?

なぜかなら、そこにしか“人間”は存在し得ないのだから。

認識されない限り、あっても、ないのと、変わりがない。宇宙だって、認識できる我々人間がいなければ、ただの寂しい無限大だ。

ともあれ、人は愛された分だけは、
愛せるようになれる

これまでどうだったかを問いはしない
今からでいい

愛し
愛されたまえ
人間たちよ


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うたがわきしみ

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うたがわきしみうわごとだものⅡ

感じたことあれこれ。日常。コラム。創作日誌。エッセー的な。作品にはならないうわごと系の。二個め。文芸を志す方にオヌヌメ。
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コメント4件

人はひとりでは『人間』ではない。
ふたり以上の複数人になって初めて、『人間』なのだ、とは良く言ったものです。
そして、支え合う形が『人』の文字なのだ、とも。
個を大切にすることを、人とのかかわりを粗末にすることと思い違いすることなかれ。
三つ子の魂百まで。
うむ
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