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『noteで良かったか? ~note存在論的実存主義で嘔吐するサルトルも斯く語りきサモハン・キンポー主演黒船来航ちょんまげピストル滞在攻防記:「誰が寿司はマグロからと決めたのか?」ソシュール言語学概論第四章より抜粋の極みガイアの朝焼けアーネスト・サトウは家政婦なみに垣間見た情熱ホルモン大陸間弾道少女けだし夕刊マダムはレトロスペクティブより~』

noteで良かったことを語る前に、あの吉田さんのコメントスレ――

果たして本当にnoteは「良かった」のかどうか
「良かった」と断定するからには、光と影が切り離せぬように
「悪かった」という評価が当然背中合わせに存在しなければならない。

だが、noteというこの曖昧模糊とした世界を
実際問題、良いか悪いかの狭量な二元論で片づけてしまっていいのか、
まず僕らはそこに立ち返って考えてみる必要があるのではないか。

なぜかなら、かつての最先端物理学の検証結果を遡るまでもなく、
絶対的な客観性というものはこの世に存在し得ないことはすでに証明されており、どれほど一人ひとりが声高に「良かった!」と叫んだところで、それは数千、いやたとえ数万もの声に達しようとも
あくまで個人的局地的主観の羅列と蓄積に過ぎず、真実、誰もが断定し得る固定化された「note良かったもんねモメント」というものは、その根拠の脆弱性からいって未だ存在を許されてはいない。

あの満月の夜にぷるぷるぷるるんと颯爽と登場することで有名なおっぱい探偵豊満寺たゆたゆんを出し抜き、見事断定対決に打ち勝った、史上最速で断定をもぎとる男――断定探偵、庭々二羽鶏ガイル氏の力量をもってしてもこの命題を断定しきることは難しいとされ、今なお、喫緊の最重要課題として取りざたされていることを鑑みれば、
在野在朝問わず、仮にたった今、本当に断定することができたなら、
その御仁は地球で最もノーベル賞に近い位置に近づいたと言っても過言ではなく、むしろそれだけは断定して差し支えないように思うのである。

ともあれ、二元論でnoteをくくろうとする行為自体の乱暴さにメスを入れることは容易いが、大事なことは、noteとは何か、
ということをまずもって各人が捕まえて切れているのかどうかということであって、いみじくも佐藤春夫は「君が瞳はつぶらにて 君が心は知りがたし 君をはなれて唯ひとり 月夜の海に石を投ぐ」
と謳ったように、noteという宇宙はどうにも推し量りがたいつぶらな海が広がっているように思えてならず、まるで大事なものをそっと置きに来たような
あるいは長い間取りにこれなかった忘れ物を取りに来たような
そんな相反するアンビバレントな気持ちのせめぎ合いの中で、我々はnoteという宇宙(アイロニー)をもう一度掴みなおす必要があるのではないかと
痛切に痛感してやまない昨今なのである。

noteはある人にとっては青春そのものであり、
思い起こせば学生時代は居酒屋のバイトに明け暮れて新宿の夜は朝なのであったあさぼらけ、などとのたまって
せっせと朝方まで働いてると、賄カレーが用意されて、わははは! ぐわし! ぐわし! と飲むように掻き込む18、19の夜は終わらず、いわんや『たつた四杯で夜も眠れず』、
そこまで残った釜の飯というのは、もう酸味を通り越してワキガにも似たスパイシーな香りを放っており、我々はスパイシー柔術を極めつつ「ワキメシだ! ワキメシだ!」などとバカ騒ぎしながら腹に流し入れるしかなく…

紅一点で夜な夜な皿洗いをして稼ぐハマさんというおばさんは、どっからみても肝っ玉母さんで
いつも元気で張りのある声で、誰よりも「いらっしゃいませー!」「ありがとうございましたー!」を叫び続け、最後まで我々の背中を押し続けてくれるスーパーウーマンなのであるが

とある深夜、水場から何やらぶつぶつとささやく声が漏れてきて覗いてみると、彼女がひとりでせっせと大量の皿を洗っていて
こっそり気づかれないように近づいて耳をそばだててみると
「ハマさん、がんばれ、ハマさん、がんばれ……」
とアカギレで真っ赤になった手にいい聞かせるように
自分を応援しながらそこに立ち続けるハマさんがいて
我々はふいに、ガツンと横っ面をはたかれた気持ちになって
ずっと強い人なんて一人もいない、
そこにはただ、常に、強くあろうとする方を選んだ人がいるだけで
人生は一瞬一瞬が、なにがしかの戦いであり、
我々には、どうしたっていろんなことが降りかかってくるけど
それでも、その一瞬一瞬において、
強くあろうとする方を選んで生きるかどうかが試されているわけで

何が起ころうと、ハマさんを思い出しては、
どんなときも負けないで、明るい方へ明るい方へ自ら漕ぎ出し
時には自分で自分の心を持ち上げて、
しなやかに、したたかに、こんにちを乗り切っていくしかないのではないか。

そういう、よかったとか、悪かったとかじゃなく
何か言葉で、ひとくくりにできないエモーショナルなものが
noteなんじゃないかって、つかみかけてはいるけれど
それでもまだ、我々は断定せずに
もっと深く、もっと濃く、noteの海を見つめていかねばと
抜本的な領域で決意せざるを得ないのである。

そのうえで、各々が「良かった!」と断定し得たときが
それぞれにとっての、本当の勝利であり、
そこにのみnoteの真実は宿ると、こう申し上げて
現状でできる精いっぱいの答えにかえさせていただきたい。

以上!

追記:良かったかどうかと言えば、まあ、すこぶるとは言わないまでも、概ね、良かったと言える部類に属してはいる気がしないでもないわけで、煎じ詰めれば、そこはそのあくまで線引きの上での結論としての話にはなるが、良かったなと、そう信じたい気持ちの中に常に真実は見え隠れしているようで、揺らめくかげろうのごとく、今まさに、恐らくこれで良かったのであろうなという感慨が立ち上ぼってくる事実を鑑みるに、訝しげもなく、そうだ、間違いなく良かったのだ、とわしは思いたい、そんな今日この頃なのである――

↑でも議題にあがっていた例の「良かった」という概念についての検証は徒や疎かには扱えないしろものなので、再度振り返ってみたところ、まずもって、noteが良いか悪いかは果たして個人がフタを開けてみなければ実際にはわからないことではあるが――言ってみれば『シュレディンガーの猫』状態でそれを確実に認識するまでは、良かったという状態と悪かったという状態が重なって存在する時間があったと解釈されるわけで、触れてみた人間だけが、「良かった」という認識に立てることになる。

しかしそもそも我々人間は「良かった」という感慨が先にあり、それについて「良かった」という音律をあてがって意思を表現しているわけだが、果たして「よ」と「か」と「っ」と「た」を用いたこの表記音韻そのものに誰一人疑いのまなざしを向けていないこんにちの日本の現状を鑑みるに、平和だなあ、令和だなあ、というエモを禁じ得ず、ここにその考察の一端を述べることにする。

ソシュールによれば言語記号(シーニュ)は、〈シニフィアン/シニフィエ〉というふたつの側面をもつ。
たとえば「豚」というシーニュは、「BUTA」という音声像(シニフィアン)と、その意味(概念)としての豚(=シニフィエ)という、コインの両面のような契機を持っている。

この分割によって明らかになるのは、このふたつの側面の結びつきは、ある国語[ラング]の体系の中ですでに決まっているという点では確かに必然的なのだが、しかしもとをただせば、たまたま「豚」が「BUTA」と呼ばれるようになったという意味で、本質的には恣意的(好き勝手、気まぐれ、偶然、誰かがこいつにBUTAって音韻が合いそうだからそうしてみるべ、なんてことがあったはずで、つまり今はたまたまそうなっているの)であるということだ。

日本語の「ブタ」は、英語では「ピッグ」と呼ぶように、音の像は「豚」の概念と必然的に結びついているわけではない。これは、〈シニフィアン〉→〈シニフィエ〉という、いわばたて系列の恣意性である。

閑話が休題したので閑話休題。

ここで思考実験として、言語の成立についておさらいしておくが、ある特殊な記憶喪失になった人がいたとして、その人は言葉の記憶のみが失われた状態だとする。

その人の目の前にはこの現実風景が広がっているわけだが、
言葉を持っていないその人には混沌とした抽象状態に映り、
不安を拭い去るように目前に広がる特徴に名前を付けていくことになる。

真ん中の線を境にして、上を「ソラ」下を「ダイチ」
その線自体を「スイヘイセン」、「ソラ」の中でも
色の違う部分を「クモ」と名付けると、
混沌としていた情景が安定した世界へと移行していく。

特徴を境界として分けることを言語学では「分節化」と呼び、
最初に世界を「ソラ」と「ダイチ」に分節したわけだが、
大事なことは、「ソラ」なくして「ダイチ」はなく、
逆もまた真なりで、「ダイチ」がなければ「ソラ」もなく
つまり互いが互いを存在させあっている状態であり
すべての言葉はこうして互いに依存しあって存在し、
自立しては存在できないとされている。

このことは吉田さんのところでも言及した
「悪かったこと」の輪郭があって、
はじめて「良かったこと」の輪郭が保たれるという件とも類似している

それはだまし絵の「ルビンの壺」のようなもので
あの絵は壺でありつつ、向き合った顔でもあるが、
どちらかを消せば、片方も同時に消えることになる。

「ソラ」「ダイチ」「スイヘイセン」「クモ」…
すべての言葉はお互いの輪郭を保持させるように結びついて
依存しながら存在している。
とすると、ひとつの言葉が無くなっただけで
構造全体すら組み替えられさえすることになる。

たとえば「醸す」という言葉を辞書でひくと
「何かをしているうちにある状態を徐々に作りだす」
と出てくるが、これを理解するには、
「何か」「している」「状態」「徐々」「作る」「出す」
という言葉を知っている必要があり、
それを知るために「何か」を辞書で引くと…
さらに複雑で煩雑な範囲でたくさんの言葉と関係してその意味が成立しており、
それを知るために…とやっていくと国語辞典のすべての言葉が
芋づる式に必要になってくる。

すべての言葉は非常に複雑な網目の関係性の中にあり、
互いに依存しながらその存在性を保っている。
この言葉の構造化した網目の体系を言語学では「ラング」と呼ぶ

(閑話休題)

言語文節の恣意性の話に戻ると、信号の青色があるが、
あれは人によっては「ミドリ」と呼ばれることがあり
その色の特徴をどう分けて輪郭を与えるかという場面において
言語の分節が恣意的である以上、事物の総体である世界の存在そのものが
それぞれの文化や個人によって違うものとして
相対的に把握されるものになってしまうということだ。

重要なのは、たとえば、犬─野犬─山犬─狼といった、
語の横系列の輪郭の恣意性がここから出てくる点だ。

犬─野犬─山犬─狼
それぞれの語(シニフィアン)は、
それに対応した概念を持っている。

ところが、言葉は時代や場所で変化してゆくから、
仮に山犬[ヤマイヌ]という語が死語となって消えたと考える。

すると常識的には、山犬[ヤマイヌ]という語で表わされていた
概念も消えてしまうように思えるが、
実際は野犬や狼という語の概念(シニフィエ)が拡がって、
消えた領域をカバーすることになるのである。

つまり、時と場所が違えば、
ヤマイヌだったものをある人は野犬と呼んで区別したり
狼と呼んで区別するように簡単になり得るわけで、
この言語の恣意性(偶然性、今たまたまそうしてるだけ)ということから
次のような重要な観点を我々にもたらすことになる。

それは、言葉というものは、
すでに客観的に存在する事物や秩序(特徴)に、
我々が記号として名前をつけていったものではなく、
むしろ、事物の秩序は、人間が言葉によって
編み上げたものにほかならない、という見方である。

はじめに言葉ありき

これにより、
それまでの言語学(言葉は客観的な事物の秩序に名前=記号を与えたものだとする
「言語名称観[ノマンクラチュール]」)の見方が、
根本的にひっくり返され、あれほど明確に思えていた言葉と概念の一対一性が
もろくも音を立てて崩れ去ってしまったのである。

であるならば、「良かった」という言葉の音律表記が実は先に編み上げられて存在していて
我々は「よかった」という気持ちの概念輪郭を後乗せサクサクで
あてがったに過ぎない、という疑念すら頭をもたげてくるではないか。

かくて「良かった」という概念の輪郭は
こんにち、たまたま我々はその幻想を共有し得ているが
それがどれほど不安定で互いに複雑にからみあった中で
認識としてもたらされているか、ご理解いただけたと思うが
その段に至ってなお、「よ」「か」「っ」「た」と叫べるかどうかといえば
こんなことができるnoteってやっぱ…
控えめに言って、「良かった」よね。

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