それはまるで、見え透いたカツラのように

訳あって地元に戻ってきている。

僕の地元は都心に比べて2度ほど温度が低く、自宅は外気温より1度低い。つまり、都心に比べればトータルで3度低くなる計算だ。そんなことって、あるだろうか。

そんなわけで、僕は朝起きるたびに冷える足先にイラつきつつ、なかなか暖まらない部屋に嫌気がさしてエアコンの温度設定を1度上げる。
その温度設定が1度上がる度、どれほどの温室効果ガスが放出されるのだろうか、などと想いを馳せながら、融解しゆく北極の氷のうえでダンスするペンギンを想像し、「あいつペンギンに似ていたよな」と、高校時代の友人との飲み会にてなんのツマミにもならないぐらいの話のなかにでてくる、そんな同級生のことなんかを思い出してみていた。

もちろん、そこで彼の話はおしまいだ。そこから飲み会を盛り上げるエピソードトークがあるわけではないし、言葉を選ばずに言えば、久しぶりに会いたいだなんて微塵も思わない。向こうだって、こっちのことなど願い下げだろう。
そもそも彼とは一切共有した覚えのある想い出なんてなくて、全くもって悪意はなく言うことだが、僕の人生において彼の存在は街の中の通行人と同じレベルの存在だ。ほんとうに、1ミクロンも他意はない。
嫌いも憎いもないけど、つまりは無関心極まりないのである。


こういう話題をだすと、必ずあとから罪悪感と言うべきか、「ちょっといいすぎちゃったかもな」という後悔の念が湧き上がる。
傷つける気はさらさらないけど、もしこれが巡り巡って彼の耳に届いてしまったとしたら? その時には、僕は申し訳なさから押し潰されてしまうかもしれない。
ラスコーリニコフがそうであったように、良心の呵責に苛まれるのである。

しかし、考えてみれば、名前を知っているということはものすごく大きなことかもしれない。一般の通行人とは違って飲み会の中で突然話題にあがるほどだ、それはある種の特別感を有しているはずだろう。もちろん、その話題が「あいつペンギンに似てたよな」なんていう、それこそ人生においてなんの足しにもならないほどの話であることは傍に置いておくが。

名前があるかないか、ということは自分の人生においての意味づけに大きく関わる。通りすがりのペンギンと、名前を知っているペンギンとは全く違うから。そのペンギンの顔という単一性のキーに対し、ある記号が紐づけられることによって、そのペンギンは僕の人生のなかで途端に括弧付きのペンギンに変わる。そう、意味をなすのだ。"言語"を持つことの重要性はここにあるのだろう。

通行人だと思っていた彼は、実は通行人なんかではなかった。名前を聞いたら、「ああそんなやついたかもな」と思い出す程度だとしても、どちらかといえば、芸能人と同じレベルなのかもしれない、と思い直しているほどだ。
そう考えると、何故だか急に彼の存在がすごく輝きはじめてくる。なんといっても芸能人だ。もしかすると、ゆくゆくは”ペンギンに似ている芸人”でブレイクだってするかもしれない。アメトークだって夢じゃない、かもしれない。

だとすれば、僕は彼のことを応援せざるを得ない、ということになる。なんといっても、ペンギンに似ている芸人と同級生なのだから。応援のひとつだってさせてほしい。そうすることが、彼に対して唯一できる僕なりのコミュニケーションなのだ。
ぜひとも、彼には頑張って欲しいし、機会があれば相見えたい。そして、応援の言葉を二言三言かけさせてもらって、これまでの非礼をそれによって水に流してもらうのだ。
そうするほかないし、なにより、それが一番の選択肢だと思うから。

***

そんなことを、見え透いたカツラの老人を見かけて思った。

つまりは、そういうことだ。

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