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レシピ9:プチ断念してみる

「なぜ、人間は悪と知りつつ、悪をなしてしまうのか?」

 散歩中に見かけた光景をきっかけに、しばらくのあいだ、この問いから離れることができませんでした。

 その光景とは、カメラをぶら下げた団塊世代とおぼしき男性が、立ち入り禁止の区域に平然と侵入し、そこに咲き乱れるハクモクレンの花を撮影していたというもの。

 妖艶なハクモクレンの純白の花被片は、確かに人を惑わし、惹きつけるものであったことでしょう。しかし、ロープで囲まれ、明らかに立ち入り禁止とわかる場所であっても、かの素人カメラマンは、なんの躊躇もなく足を踏み入れ、「写真を撮影する」という己の欲求を優先させたのです。その姿に衝撃を受けました。

 われわれは、悪と知りつつ、悪をなすことがある。

 それはなぜでしょうか?



 その理由について、極めて簡略にまとめると、以下のように整理できます。

 ◆ 悪と知りつつ、悪をなしてしまう理由
  Ⅰ)道徳性の欠如
  Ⅱ)強大な欲求の存在
   ① 欲求対象の誘惑が強大
   ② 欲求が抑制されていない

 たとえば、試験を直前にひかえた受験生が、ダメだと知りつつも、テレビを見てしまうケースに当てはめてみると、以下のようになります。

 Ⅰ)試験勉強をすることの意義を理解していない。
 Ⅱ)テレビの誘惑に負けてしまう。
   ① 試験勉強よりも優先すべき重要なテレビ番組があった。
   ② テレビを見たいという欲求を抑えられなかった。

 冒頭で紹介した、立ち入り禁止を無視したシニア写真愛好家についても、以下のように整理されます。

  Ⅰ)当人の倫理観/道徳観の欠如(=道徳性のかけらもない卑劣漢)
  Ⅱ)①ハクモクレンの花があまりにも美しすぎた
    ②写真を撮りたいという欲望を抑えることができなかった

 では、どうすれば、ルールやマナーを守った写真撮影を楽しんでもらえるようになるのでしょうか?

 すべてのカメラマンがマナー違反をするわけではありません。ゆえに、その理由を、外的な要因に求めるのではなく、あくまでも個人的なもの、つまりⅡ②「撮影欲求のコントロール能力」に求めるべきではないかと考えています。

 悪をなさない秘訣は、欲求をコントロールする能力、つまりは「自制心」にあります。



 「欲求」と密接に結びつくのが、脳内の「報酬系」です。

 人間は、なにかしらの欲求が満たされたときに、A10神経系からドーパミンが放出され、そのドーパミンによって快楽を感じるとされています。

 真夏の灼熱の太陽の下を歩きつづけ、ようやく一杯の麦茶で喉の渇きを潤したときの「生き返った」感じは、まさに、このドーパミンによる多幸感だといえます。また、長年の苦労が報われ、目標を達成したときの感動達成感、さらには、SNSでたくさんの「いいね」を獲得したときの充実感なども、報酬系の働きに他なりません。

 なお、中毒性のあるアルコールやニコチンは、このA10神経系を刺激し、ドーパミンの放出を活性化させます。また、脳内麻薬であるエンドルフィンやモルヒネ、ヘロインといった麻薬は、A10神経系を制御するGABAの働きを抑制することで、結果的にA10神経系を暴走させ、ドーパミンの放出を促進させます。

 いずれにせよ、多幸感や快楽を生むドーパミンの放出を生み出す飲酒や喫煙といった行動は、好んで反復されるようになります。それが「依存」という状態です。(注1)

 そして、重要なのは、過剰な量のドーパミンに晒されつづけると、脳はドーパミンと反応する受容体の数を減らします。つまり、耐性を持つのです。

 その結果、同じ量のアルコールや薬物を摂取しても、以前と同じような幸福感を得ることができず、さらに摂取量が増えるといった悪循環を生み出すことになります。これが「依存」の完成した瞬間です。



 現代の日本社会は、人々の欲求を満たすため、次々と大量の娯楽が消費されている時代です。その結果、われわれの脳は、常にドーパミンに晒されていると考えられるでしょう。

 さきほど見たとおり、過剰なドーパミン放出を受けた脳は依存状態となります。つまり、われわれの脳は、知らないうちに、欲求を満たさずにはいられない「依存状態」になっていたのです。

 それは、まさしく「横暴」「わがまま」「自己中心的」という状態でしょう。しかし、当人にその意識はありません。アルコール依存症が「否認の病気」と呼ばれるように、依存症の患者には病識がないことが多いのです。

 つまり、欲求を次から次へと満たすことによって、われわれは、気がつかないうちに「欲張り」になっていたということになります。



 冒頭の問いに戻れば、欲求をコントロールするためには、要するに、欲求を次から次へと満たす習慣を断てばよいのです。

 つまり、あえて欲望を満たさない。ちょっとだけ断念してみるのです。

 「もうちょっと食べたいな」と思ったところで、あえて止めてみる。

 「もう少し見たいな」と思っても、テレビやパソコンを消してみる。

 修行僧のような大袈裟な禁欲は必要ありません。なぜなら、禁欲することが目的ではなく、あくまでも欲求を充足させる習慣を断つことが目的だから。

 むしろ、ほんのわずかの断念が、いいのです。

 なにかを断念するということは、いままで欲求に依存し、情動に翻弄されていた自分自身の身体を、この手に取り戻すことに他なりません。

 身体のコントロールを取り戻したときの爽快感は、欲望が生み出す快楽など、はるかに及ばないものです。

 自分自身であることは、最大の愉悦なのかもしれません。


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