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愛のなりそこない(エッセイ)


 目の前の誰かをたまらなく傷つけたくなったときは、その人があなたが愛するにふさわしい人なのか、一度考え直した方が良いと思う。なぜってそら、憎むことは愛することだからさ。あなたにとっては違うかもしれないが、私にとって憎むことは愛することなのだ。


 私の愛する言葉、それはなだらかな言葉。愛する言葉がでこぼこと不自然な形で自己欺瞞に用いられているようなことがあればその時こそ私は憎しみを燃やす。私にとって言葉はなだらかにその人の心持ちや現象を述べるための存在であってほしかった。理論武装や相手を懐柔するための道具としてあってはならなかった。

 愛。それはなんと安い言葉だろうか。
 相応のお金を払えば愛を囁いてくれる人などいくらでも見つかりそうなものだ。今日日「愛」という言葉の価値などコンビニで売られているうまい棒くらいのものなのかもしれない。しかしだ。元来愛するとは命がけの行為ではなかっただろうか。
 
 愛を囁くためには相手の間合いに侵入しなければならない。あなたは胸に憎悪にも似た小刀を潜ませて相手に何かを耳打ちする。それは愛のささやきでもひそかな約束でもなんでもいい。いつでもとっておきの短刀で急所を貫けるように準備をしながら相手の間合いに入ること、返り討ちや相打ち覚悟でお互いの間合いを侵すこと。それが愛ではないのか。

 愛するためには相手をよく知らなければならない。相手を知るたびに相手の急所がよく把握できる。効率よく破壊活動を行えるようになる。

 つまり、愛と言うのは相手のために日々とっておきの言葉の刃を研ぎ澄ましておくことではないだろうか? いつかあなたが裏切られたときに相手の胸を一突きで貫通するような重い一撃を放つための刃。
 あるいは自分の価値を信じるためだけに裏切りに誠意で答えて胸に抱いておくためだけのとっておきの罵詈雑言、を身を守るための小刀代わりに抱いて相手の懐に飛び込むこと。

 どうして愛のない相手に憎しみをぶつけることができるだろうか。あなた自身が傷つく覚悟もなしに?

 言葉は凶器でありメスでもある。二度と立ち直れないような深い傷を残す言葉。病巣を取り除く一太刀になるべくして生まれる言葉。
 そのどちらでもなくただ戯れに放たれる礫のような言葉、つまり精度の悪い悪口と言うのはほとんど自己紹介ではないだろうか。相手のことなど目に入っていない、ただ自分に向けられた憎悪と言う名の愛の告白。
 

 憎みきれない、かといって愛も感じない相手への独白を見たとき、私はついこんな風に考えてしまう。「ああ、もったいない」。憎しみは、愛は、ただあなたの車輪を回すカロリー、熱源、みたいなもので。それは元来あなたを奮い立たせるため、生きる力を得るため、あるいは完全に生への執着を断つために正しく使われるべき熱源であったはずなのに。方向を見誤って間違った相手に向かって使ってしまうなんて。なんてもったいない。

 などと言ったところで、私は自分の悪趣味を吐露しているだけなのかもしれない。
 たとえば書物をひも解くように人の心を読み尽くすことを愛情だと勘違いしているところとか。実際には愛と言うのは私の想像も及ばないもっと崇高でハイパーエコロジーでエコノミーなかつてない完ぺきな仕組みで作動する巨大な装置なのかもしれない。私が愛だと感じている行為は何の役にも立たない曖昧な動作なのかもしれない。私のまったくあずかり知らないところで。世の中は愛の定義を変えてしまったのかもしれない。それ以前に私の感じている愛の定義なんて、愛と呼ぶにもおこがましいような、とても矮小な個人た行為なのかもしれない。閉じている。相手のことなどお構いなしに、自慰に耽っているだけなのかもしれない。

 かといって愛など全然関係なしに目の前の人の心を読み解くのはやっぱり愉しいのだった。目の前の人がなにによって作動するのかそのコアを探り当てるのは、何を差し置いても楽しくて愉しくてたまらない。平素覚醒しきらない胡乱な頭が目の前の娯楽に目を輝かせて活き活きしてしまう。
 目の前の人を組み立てている根底にあるものは、有名な科学者の言葉かもしれないし、幼いころに投げかけられた両親の何気ない一言かもしれないし、あるいは読んだ本の一節、小学生の頃の思い出、青春の痛手、生まれなかった恋の萌芽、その人の言葉や行動の裏にあるものを一つ一つ探り当てていくのはぞくぞくして楽しい。特に憎悪にまみれた人の行動はわかりやすい。子供の頃に攻撃的な言動を許されなかった育ちのいい子供だった人。リアルでは誰かに口応えしたこともないような人。喧嘩慣れしていない人は、ガードが丸あきなのでとてもわかりやすい。あるいは踏み込まれたら一発で沈んでしまうような古傷を負っている人は、そこばかり護るのでやはりわかりやすい。

 皮肉なことにコアを探っていく手順が洗練されてゆけばゆくほど、それは破壊と身近なところにあることに気がつく。愛することと憎むことは表裏一体なのだ。いたわることと壊すことはほとんど同じなのだ。ただ私たちは理性の力で愛の力による破壊活動をしないだけであるのだ。なぜならば、それこそほんとうに、対象を愛しているから。なんというトートロジー、なんという欺瞞。

 強いて言うなら言葉の鉈はほんとうはいつも自分に向かって振り下ろすべきなのではないだろかと思っている。絶え間ない自己破壊の先に希望がある。愛も憎悪も自分の研鑽のために使えるのが一番良い。
 でもこういう考え方はきっとかなりマッチョで、万人に受け入れられるものではないのだろう。ただ例えば更衣室で、井戸端会議で、街中で、色々なところで、気軽に誰かの陰口を叩く人は愛がない、憎み甲斐のない人だなぁと感心してしまう。他人のことよりも自分に興味を向けないのだろか。大切なことに。人や、ものに。わからない。

 巷にあふれている悪口や陰口を目にしたとき私は、愛の無駄遣いだ、と思ってしまう。照準を合わす相手も放たれた言葉の軌道も見当外れだから、そのへんにぶつかりまくってゴロゴロと転がっている悪口を見ると、「愛の礫のなりそこない」と思ってついしげしげ眺めてしまったりする。
 たとえばツイッタランドの「男って」とか「女って」とか「〇〇国人は」とかいう雑な悪口を行きずりの人に浴びせるよりかは、出す宛てのないラブレターを一人で書いている方がなんぼかマシではないだろうか。あて名はまずは自分から。自分に飽きたら他の人に。少しずつ愛と憎しみを抱ける範囲を広げていくことをお勧めする。

 女性を、男性を、あるいは隣の国の人を、憎んで憎み切って心の底から憎しみが溢れてきてたまらない人は、憎しみの裏側に隠れている愛に、少し目をやってみてほしい。そのHateをしたためた紙切れの裏に「もっと話を聞いてほしかった」って書いてありますよ。

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