精神の破壊と再生をエンターテイメントに昇華するということ。


 心の生き死にを記した記録を芸術と称すること。いつごろ、誰が始めたものなのだろうか。ロックスターが早死にする時代は終わった。とLady gagaが言った時、私はこの人について行こうと思った。
 でも実際のところそう約束してくれたGaga本人でさえ、私生活の切り売りと破綻と再生のスパイラルから抜け出せていないように思う。引退、そして華麗なカムバック。いや彼女の復帰作ArtPOPは本人にも知らない子扱いされるような作品なのだけれども。
 
 私はLady gagaの1stアルバム、The Fameの『Paper gangstar』が好きだ。夜中の焦燥にペンを走らせる、過去の苦い失恋に思いを馳せる女の子の歌。婚姻届けにサインすることを拒んでいつ日の目を見るかもわからない詞を書いている。
 他の曲はセックスをドライブに喩えていたり、あんまり好きじゃない。楽しいのは楽しいけど。
 でもこういう「アーティストの私生活を垣間見る」ことができるような気がする作詞をファンが喜ぶようになったのは、いつからなんだろう。っていうかこういう好みが実はアーティストを苦しめていたりするのかなぁ。と思って考えたことを今から書きます。

 2ndアルバムでGagaは孤独や不安や焦燥に焦点を当てたダークでエレクトロな音楽を聞かせてくれた。ユーロビートを意識した、と本人も説明していたこのアルバムは、死や不安の色が強い。次いでBorn this wayを発表したGagaは、人間を賛美する意味をこの曲に込めた。このころ暇が募って彼女のTwitterをこまめにチェックしていたのだが、正直あまりピンとこず、アルバムも買わなかった。

 舞台から落ちて骨折後、復帰作として掲げた3rdアルバム、ArtPOP。過去の性的暴行被害を告白してパフォーマンスするGaga。Swineは結構聴いてて苦しい。生々しい。
 挫折と栄光のエンターテイメントショー。スターの人生そのものを消費している気がする。


 確かに、崩れ落ちたものが素材はそのまま、新たに積み直されていく様子はドラマチックだし感動を誘う。だからと言って。他人の人生さえ消費するスタイルは責められるべきじゃないのか。選ばれた人間が相手なら許されるのか。「フレーバーだけ残して消えていく歌手にはなりたくない」とかつてGagaは歌っていた。ロックスターが早死にする時代は終わったのだと。そう語る彼女に共感した。でもどうだろう、私たちはあいかわらず、スターがコケる瞬間を待ち望んでいるし、コンセプチュアルアートもパパラッチの手にかかれば簡単にネタとして消費されてしまう。パールは汗で剥がれ落ちて「皮膚病のようだ」とメディアがはやす。素知らぬ顔で空のティーカップを傾けていたGagaも、ほんとうは結構傷ついたり混乱していたのではないか、と思う。そしてファンは相変わらずアーティストを神と崇める。神が失脚するとどうなるか知ってる? 考えたことはある?


 ころして、うまれかわらせる。そんなことをもう何度も繰り返している。たぶんこの世に弥勒菩薩が現れても、私たちは簡単に殺してしまう気がする。次はないなんて知らなかった。そううそぶきながら。


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