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蜘蛛の糸【小説。昔話風】

 三十人ほどが暮らす山間の小さな集落に、投資家と名乗る奇妙な男が現れたのは、もう日も沈もうとしている頃だった。耳が腐るほど聞いた、再開発の話だ。村落のインフラは老朽化している。村の自然エネルギーを電力に変え、更には景観を整備して観光資材にし、得られた資金で村の財政を賄おうという話だった。男の話は横文字が多く、何を言っているか要領を得なかった。
 村の人間にとっても悪い話ではない。月々このような収入が見込めるだろう、と男は手持ちのタブレット端末をこすった。津村は掠れる目をこすって数字を読み取ろうとした。眩しくってかなわない。

 自分の一存で急に決められるものではない、一度持ち帰って村中で話し合わないことには。というと、その日は男はおとなしく帰った。

「どうしたもんかな」
 ため息が漏れた。このままでは村のインフラが立ち行かなくなるのは時間の問題だった。設備は古く、また村民もまばらで、若い人間は村をでたぎり帰ってこない。バスもタクシーもないような村だった。免許のある人間の中で有志を募って、年より連中の世話をしていた。無論、有志というのも全員年を食っている。

 ほんとうにあの男の言うとおりにすれば、村に若い人間が戻ってきて、金を落とすようになるのか。そんなばかな。

 ふと見上げれば、枝から蜘蛛がつ、と細い糸を垂らしてぶら下がっていて、津村の肩に乗った。蜘蛛はふらふらと風に舞い、あちこちに糸を撒いた。
「お前はどう思う。あいつは信用できるような人間だろうか」
 俺は手にマメのない人間は信用するなと父親に言われておるからよ。と津村が言うと、蜘蛛は七色の糸を枝から枝へと渡らせた。それはなにか、意味を持った動きに見えた。そんな馬鹿な。けれども蜘蛛の糸は、津村のかすんだ目にもよく見えた。

 糸を手繰っていくと、やがて大きな竪穴が見えた。
「入んな」
 女の声がした。このあたりに若い女なんか、とうにいないはずなのに。その声は凛としてハリがあった。

 穴倉の中には巨大な蜘蛛がいた。八本の長い脚を器用に動かし、せっせと穴の中を片付けている。それとも掘り続けているのか?
「あの男のいうことなら、真に受けない方がいいだろうね」
 巨大な蜘蛛は言った。艶のある女の声だった。
「わかるのか」
 蜘蛛はわかるが、ただでは何事も教えられない。と言う。金ならいくらでも出す。教えろ。と言うと蜘蛛はゆっくりとこちらを振り向いた。蝋燭の火がゆれて、蜘蛛の額の八つの目が赤く光った。
「あの男の言うとおりに投資したところで、三年も過ぎた頃には客足も止まって採算が取れなくなる。それきり村は廃墟だ。あいつはあんたたちをペテンにかけようとしてるんだよ」
 津村には、蜘蛛の言うことが正しいのか、男の言うことが正しいのか、わからなかった。
「どうして断ったらいいだろう」
「お前が三年前にK村でやったことを知っている。とだけ言えば十分だ」
「なんであんたは俺に知恵を貸してくれるんだ?」
「ただとは言ってないよ。あんたの末の孫を貸しとくれ。期限は三年」
 津村の末の孫は口が効けない。耳は聞こえていると言うので、精神的なものだろう、と医者は言う。
「貸せってどうすんだ。とって食うのか」
「なにもしやしないよ。必ず無事で返す。約束する」
 人間と違って、物の怪は約束を守る。そう巨大な蜘蛛は言った。

 男は家に帰って、仏壇に仔細を報告した。先に逝った妻が、何もかも聞いてくれる気がした。村にやってきた男は、冷静になって考えてみるといかにも胡散臭かった。かといって蜘蛛の言うことを信じてもいいものだろうか。末の孫娘を差し出してもいいものだろうか? 離れて暮らしている娘になんて言うべきか。

「ああ、いいんじゃない」
 娘はあっけらかんとしていた。
「精神的なものなら、環境が変わればなんとかなるかも。お父さんとこ、小学校までどうやって行くの」
「小学校はふもとの町まで下りないといかれない。車で片道一時間半だ」
「それは困ったね」
 ものは相談なんだが。津村は声を落とした。俺の知り合いが子どもに勉強を教えてやろうって言うんだ。よかったらその、
「ホームスクーリング?」
 そう、それ。娘はしばらく考えて、
「でも田舎に送ると喘息がよくなるかもしれないんだよねぇ」
 と呟いた後、小児科の先生に聞いてみる。と言った。

 
 村にやってきた男は、三年前のK村のことを知っているぞ。というとそれきり姿を見せなくなった。やはり詐欺師だったのかもしれない。
 娘はしばらくして、孫を連れてきた。相変わらず一言も口をきこうとしない。意志の強そうな、聡明そうな娘だった。
「中学に上がるまでね。お願いします」
 娘は珍しく津村に頭を下げた。津村はこれから孫を蜘蛛に渡すなんて言えなくて、気まずくて胡麻塩頭を掻くばかりだった。

 孫娘は蜘蛛を怖がらなかった。それどころか、津村が聞こえない、蜘蛛の話声が娘には聞こえるらしかった。虫と意思疎通ができるのかもしれない。津村は三食の食事を竪穴に届けに来た。娘は蜘蛛の吐く糸を使って織物を織らされていた。今まで見たことがないような、見事な織物だった。

「あんたが喋らないのは、わざとそうしているのか」
 津村は聞いた。孫娘は答えなかった。
「蜘蛛は何でも知っているな。不思議な蜘蛛だ」
 津村は独り言のように呟いた。孫娘はこくりとうなずいた。

 そうしている間に約束の三年が過ぎた。娘はたくさんの、色とりどりの織物を仕上げていた。織物を使ってたくさんのカバンを作った。カバンは面白いように売れた。村に作業所を作って、他の人にも手伝ってもらうようになった。
 娘はときどき蜘蛛から原料を届けてもらっているようだった。

 娘は相変わらず喋らない。それでもなんだか前より元気そうに見えた。喘息もすっかり治ったらしかった。

 津村は久々に蜘蛛のいた穴倉に顔を出した。
「よう、元気か」
 そこには一回り小さくなった蜘蛛がいた。
「糸を吐きすぎたんじゃすぎたんじゃないか、平気か」
「なに大したことはないさ」
「あんたの糸で作ったカバンはよく売れて、こんな村にも人が来るようになったよ」
「それはよかったね」
 あたしはあんたが昔助けた蜘蛛だよ。ずっと恩返しの時期を見計らっていたんだけど、ちょっと遅くなり過ぎたかね。と大蜘蛛は言った。
「もう十分だ、十分すぎる恩を返してもらった」
「そうかい」
 それきり蜘蛛は口をきかなかった。

 津村は時々考える。男が買いに来たものの正体を。蜘蛛が自らの寿命を金に換えてくれたことを。娘は大学で素材工学をやりたい。と言い出した。孫娘が口を開いたのはずいぶん久々のことだった。
 蜘蛛が恵んでくれた糸のおかげで、孫娘の学費は何とかなりそうだった。津村は古い家屋の中で夜、一人目を閉じる。天井からすっと糸を垂らす蜘蛛に気がつく。津村は蜘蛛を殺さない。布団の上に蜘蛛が下りてきても、そっと廊下に出してやるだけだ。
 だってどの蜘蛛が、あの大蜘蛛の子孫かわからないから。

 津村はやがて静かに死んでいった。村の一角に葬られたが、墓もすぐにどこにあったのかわからなくなってしまう。村の人はやがてあいこちに引き取られたり、亡くなったりして、いなくなった。墓を守る人もいない。自然と荒れ果て、のっぱらの中で、どこが墓だったのかもわからなくなってしまった。

 孫娘が久々に村に帰ったとき、だからその替わりぶりに驚いた。背の高い雑草が茂り、どこが道だったかわかりやしない。彼女はもう話せるようになっていた。けれども肝心の、話す相手がここにはもういないのだ。寂しそうにたたずむ孫娘の肩に、小さな茶色い蜘蛛が降り立った。
 蜘蛛が垂らす糸をたどって行けば、そこには荒れ果てた津村の墓があった。孫娘は草を刈り、墓を磨き、持ってきた花を供えた。

 ふいに風に乗って蜘蛛が糸を吐くような音が聞こえた気がして、娘は振り返る。娘はもう娘と呼ぶべき年でもなかった。
「蜘蛛さん、ただいま」
 答える相手はもういない。
 ただ村のあったあたりでは、夜になると、墓の周辺で巨大な蜘蛛を見る人が後を絶たないという話だった。孫娘はできたら私もその蜘蛛を見てみたいものだと思う。

 私が話しかけたい相手は、後にも先にもあの巨大な蜘蛛だけなのだ。


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