22歳の夏、父親が死んだ。

声を上げて泣くこともなく、気がついたら通夜と告別式が終わっていた。母は病気で動けないし、兄弟はいない。親族も皆遠くに住んでいるから、私が喪主を務めた。5日程の慶弔休暇も消費して、仕事にも今まで通り出ている。「私は平気だ。周囲が言うように意外と強い子だ。」そう思っているし、ちゃんと笑えているし、大きなミスもなく仕事もこなせていていつも通りの毎日を過ごしている。

一人暮らしの部屋には生ゴミの袋が3袋溜まっており、洗濯物も2週間分ぐらい溜まっている。脱ぎ散らかした靴下が床に落ち、食器は何日も洗えていなくてとうとうお箸のストックもなくなった。自炊もしなくなり、三食コンビニ弁当。もうすぐ訪れる夏休みでなんとかすればいいや。そう思って迎えた夏休み初日、

…やっぱり大丈夫じゃないのかもしれない。

と感じた。やらなくてはいけないことは沢山あるのに、何に対してもやる気が起きない。泥のように寝ていたら1日が終わっていた。

49日の準備や、御香典の名簿整理、お香典返しの準備、葬儀代の振り込み、父のスマートフォンに来る父の友人からのお悔やみのメッセージへの返信、退職金や遺族年金について、父が残した家をどうするか、父の会社に荷物を取りに行かなきゃ、仕事の復習もしなきゃ、上司との面談の準備しなきゃ……頭の中は、しなきゃしなきゃばっかりで、もーーーーーほんとうに全てが面倒で全部投げ出したくて何にもやりたくない。本当はやりたいんだけど、できなくて、自己嫌悪の沼にハマる。

LINEの返信を暫くしないだけで、心配して騒ぎ立てる母親にすらどうしようもなくイライラする。皆放っておいてくれ。そう思うくせに、職場で「触れてはいけないもの」として業務上必要な情報以外全く父の死の話を聞いてこようとしない上司にも腹が立っている。(それが優しさなのは頭ではわかっている)

自分史上一番面倒な状態になっている自覚はある。人の親切を面倒に感じる一方で、放っておかれたらおかれたで腹が立つ。父の死が悲しいはずなのに、もう精神病で狂った父を見なくてよいことに対して安堵感もある。何にもできておらず前に進めない自分に自己嫌悪を感じつつも、この歳で喪主を務めて普通に会社に行って淡々と仕事をこなしたこと、「強い人だ」と言われることに陶酔している。病気で思考力も弱ってきている母親を、経済的にも精神的にも私が支えなければと思う一方で「どうして私ばかりが動き、対処し、文句を言われ、この人は安全圏から眺めているだけなのか」とドロっとした感情も渦巻く。

全てを投げ出したくなる程に、多くの事柄と感情に支配されている今という時間は、きっと人生のターニングポイントになり、未来の私の糧となるはずだ。

いつか、このカオスを乗り越えられた自分が糧を必要としたときのために、今感じた心の中身を書き残そうと思う。

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