批評と誹謗中傷

私はツイッターが好きな「おたく」側に位置していると自認しています。

そこでよく感じるのは「批評/批判」と「誹謗中傷」の区別を付けていな人が結構いるんじゃないかってことです。

「私はおたく」なのも踏まえて考えてみると、電車男ブーム(2004年)以降弱まってきたとはいえ、おたくに対する蔑視や誹謗中傷を当事者として、または、身近な物として感じている「おたく」は多いでしょう。もっとも、「蔑視」「誹謗中傷」を日常的に感じているのは、おたく以外にもさまざまな「属性」であるとは思いますが、ここでは「自分の事を語る」という意味でも、「おたくの話」をしたいと思います。
その、「蔑視」「誹謗中傷」に対して敏感になってしまうのはよく分かります。私のことでいうなら、「おたく冬の時代」に「なぜおたくは悪くないのか」と自己防衛的な理論武装を頭の中でひたすらこねくり回していました。
また、「おたくである」事についての後ろめたさみたいなものもあると思います。色んな面で「こんなことをしてもよいのだろうか」という葛藤に似たものがあると思います。社会との断絶を感じながら創作や消費をしているのも「後ろめたさのようなもの」でしょう。著作権的にグレーゾーンと言われる二次創作の存在はその一つでしょう。(弊サークル「砂上の空論」のスタンス(というか私のスタンス)としては「一次創作も二次創作も共に尊い」みたいな感じです。いつか別の記事で書きたいと思います)

日常的ともいえる「蔑視」「誹謗中傷」そして「後ろめたさのようなもの」などから、「何か言われること」について、敏感になっている「おたく」はかなりいると思います。
ツイッター上で度々「学級会」と揶揄される、過剰な自己ルールにおける裁定も敏感な反応のひとつでしょう。

だからといって、いや、だからこそ「批評/批判」と「誹謗中傷」は分けて考えましょう。

この記事では「批評」と「批判」を似たような意味として扱っています。有り体に言えば「批判」というと、白黒ハッキリ断ずるような多小攻撃的なイメージがあるので「批評」と言い換えて、かろうじての柔らかさを出しているぐらいな感じです。

自分の行動や好きなものが「何か言われた」時、それが「批評/批判」なのか「誹謗中傷」なのかで、対応が変わるでしょう。
「誹謗中傷」なら、「それは誹謗中傷だ」と指摘すればすむ話です。
「批評/批判」なら、なぜそう言われたか、一度考えてみる必要があるでしょう。
その自省的な行為は決してネガティブではありません。よりよくするための材料になります。
また、批評/批判を全て受け入れる必要も無いと思います。「なぜそうなのか?」をちゃんと説明できれば特に問題ないと思います。
「批評/批判」に対し、「批評/批判」で返すのも手だと思います。その場合は「誹謗中傷」を行わないことはもちろん、論点そらしにならないようにしたりする必要はあると思います。

「誹謗中傷」と「批評/批判」をおなじものとして扱うのと、「誹謗中傷」と「批評/批判」を区別して対応するのでは、自分自身にも外からの視線にも天と地以上の差が出ると思います。

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