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またたび日記〜東生旅日記トルコ編〜

まえがき

 この日記は、私坂本東生が日本の高校を卒業してからの十八歳より二十六歳まで八年、トルコ共和国イスタンブルにて四年間、英国マンチェスターにて四年間それぞれ在住しているあいだに様々な地を歩き、色々な空気に触れ、その土地に暮らす人々の息づかいを肌で感じてきた見聞録です。
 世の中、触れてみないと分からないことが沢山ありました。民族のちがい、人種のちがい、食べ物のちがいや海の色、空の色のちがい。また、我々とは言葉も宗教も、何もかもが異なる歴史と環境の中で育った、遠い遠い異国の人が、日本人の私達と同じ感性を持って共に喜びや悲しみを分かち合えるという、不思議な人と人とのつながりがこの地球に広がっている。そんな世界を皆さんに少しでも感じて頂けたらと思います。
 当時を振り返ってみても、未だに分からないことや理解の出来ないこと、まだ答えの出ない問いに苦しんだり、後悔していることが沢山あります。しかしそんな素晴らしい経験の全てをありのまま字面にうつし、またこれからの人生に於いても歩き続ける糧とすべく、疑問や後悔と向かい合っていきたい。そういう想いで記しました。
 おりおりの旅に聞き覚えの部分も多く、上げた数字などが事実と違ったりするかも知れません。話の内容もアチラへ行ってコチラへ行ってと放浪してしまうのが、マタタビの面白さとご容赦いただきたいです。

平成十八年十二月末日

トルコ編

1トルコへ留学

・トルコ共和国イスタンブル

 トルコ共和国は人口約7310万人、国土の広さは77万5千平方kmで日本の国土の約2倍。言語はトルコ語。首都はアンカラで、私の住んでいたイスタンブルは首都ではないのだが、トルコ経済と文化の中心の、人口1千万を越える大都市である。イスタンブルの旧名はコンスタンティノープルで東ローマ帝国やオスマントルコ帝国の首都でもあった。往年の方にとっては「飛んでイスタンブール」や「ウスキュダル」などの唄で、名前を耳にしたことがあるのではないだろうか。
 イスタンブルの紹介をすると、この街の地形はおおきく3つの地域に分けられる。まずは海によって東西をアジア側・欧州側に。そして欧州側をさらに湾によって分断され旧市街・新市街として南北に。有名な「アジアとヨーロッパの分岐点」として知られるボスフォラス海峡(ボアジチ)は、最狭間隔700m、全長約30キロメートルと南北に細長く伸びてアジアと欧州を分けているだけでなく、ロシア・黒海からマルマラ海、エーゲ海と抜け地中海へと結んでいくための地理学的にも人類史的にも重要な場所だ。
 このボスフォラス海峡には、観光遊覧船と漁の小舟の間を縫って、しばしば黒海からのロシア潜水艦や沈没しかかった貨物船などが航行している。文明の交差点とはよくぞ言ったもので、実はここは鯵や鰯やカサゴもいれば鰹も平目もついでにイルカだって泳いでいる格好の漁場でもあり、船の行き交う景色を見ながら、私も釣果の鯵フライをつまみに友達とよくビールを飲んでいたものです。
 いずれにしろ、イスタンブルは歴史遺産がとにかく多い街だったので、道を1本掘るにも大苦労。京都やローマのように掘れば掘るほど遺跡が出てきてしまって、私が住んでいた頃にも地下鉄の工期は随分と遅れていた。現在、日本の企業がこのボスフォラス海峡の下に地下鉄を通そうと工事をしているようで苦労を察するが、海の底から遺跡は出てこないだろうか。

・なぜトルコ?そのきっかけと決断の決め手

 日本の高校を卒業してすぐの1997年4月10日、私は単身トルコに渡り、イスタンブルにある国立ボスフォラス大学に通うことになる。
 「留学というはわかるが、そもそもなぜトルコへ?」
と未だによく問われる。本当のところ、なぜ妻と結婚したのか?という質問と同じくらいに、これに対して一言で明確な説明はできないのだが、ただ、どうしても行きたい!行かなければいけない!と強く感じたときに、行けるチャンスがあったおかげで行けた。というのは言える。それくらい「10代の勢い」に乗っかって、とにかく後先考えずにまずは飛び出していってしまった。今から思えば随分と向こう見ずで怖いもの知らずなやつである。
 たしかに一言では説明つかないのだが、自分自身のことでもあるしここで何とか当時の流れを振り返って、どうしてトルコ留学にいたったかの経緯とその時の気持ちを整理してみたい。

 私が初めて「トルコ」という国を知ったのは、小さい頃に母親が陳舜臣さんの「イスタンブール」という本を読んでいるのを見た時だ。この本のカバーの絵には湾の橋の先にあるモスクが霞にかかって描かれていたと記憶するが、小学生がトルコとアラブの違い等々知っている筈もなく、とにかく当時の印象では「トルコ=アラブでイスラムで砂漠の鬚もじゃトルコ風呂」程度の想像をしていた。のちに、トルコ人の方こそ典型的ステレオタイプの頭で固まっており、身をもって「日本人=腹切りサムライ寿司ゲイシャ」の呪縛に苦しむのであるが、そのくだりはおって述べたい。
 幼少の頃からずっと留学をしてみたいと思っていた。エジプトのピラミッドやロンドンの赤い2階建てバスをテレビで見たり、アレキサンダー大王やペルシャ帝国の壮大な歴史のお話を聞くたびに、「外国にはなんだかすごくデッカイこと」が転がっているようで、世界地図を見るたびにドキドキワクワクしていた。ただ、高校生くらいまでは日本できっちりと勉強をして、あくまでも日本のことを分かった上で海外に出たいという考えは当時も常に欠かさず持っていたので、日本が嫌だったと言うのではない。事実、、
 小学生から中学生になる頃からはおぼろげながら、せっかく海外で勉強をするのに英語圏に行ったら英語だけしか喋れないし、どうせ行くなら他の言語圏にして自分だけの独自の道を進んで将来に役立てたい、と考えるようになっていた。かといって日本で刀鍛冶になってみたいという想いもあったりして、まだまだ海外生活なんてのは漠然とした夢と理想の世界だった。留学を少しでも夢見ていたのなら、なんでこの時に漫画もゲームも減らして勉強しなかったんだ、と後々非常に後悔するのだが、そればかりは仕方がない。

 中学三年生の時、初めて私はイスラム世界と出会う。日本国中上げて景気の良かったこの頃に、私は家族にエジプト・トルコへ連れて行ってもらった。留学の下見などという事は一切考えていなくて、たまたまイスラム圏の国々を訪れた初めての機会であったが、この旅が私の青年期における人生の方向性を大きく決めることになった。
 旅程はまずエジプトのカイロでピラミッド等を見物し、次にトルコのイスタンブルとその他の都市の歴史遺産を観光するという、定番のツアー内容だった。成田からの長いフライトを終えて、ようやくエジプトのカイロ空港に夜到着した。そして私は生まれて初めて、今まで感じ得ない「異質な空気」というものを肌に感じた。日本の空気にある、人をやさしく包みこむような、木の柔らかな静けさといった(私はよくベビーパウダーの感触と例える)質感とはまるでちがい、夜の気温はそれほど高くないのにも関わらず、大気のもつモワっとした熱。人の情熱と歴史が溢れ出て乾いた砂と動きだすような、賑やかな感触。それまで感じたことのない空気の熱と何とも言えない強烈な異質さに触れ、私は心が躍った。初めて会うエジプト人は肌が褐色で、案内表示のアラビア文字も巨大な絵のよう。空港だって新しくないし取り立てて綺麗でもない。むしろ設備は古いし、埃っぽく砂にまみれた空気は眼にも喉にも悪そう。にも関わらず、この地に立っていられることが新鮮で嬉しくてたまらない。空港を出、ホテルのある市内へ向かうバスからの景色は、椰子の木があって砂色の建物があってナイル川が悠々と流れていて、まさにアラビアンナイトそのままの世界であったが、そんな初めて見る景色と、それまで感じたことのなかった、違和感とはちがう強烈な「異質感」が当時中学生の私をどう感化したものだろうか。こんな異質の中に身を投じてみたいと考え出し、カイロに居た数日のうちにはすっかりイスラムのとりこになってしまっていた。

 そんな好印象を抱きながら、次の目的地、トルコのイスタンブルに到着する。さて、このイスタンブルであるが、一般にはこの街もカイロ同様「アラビアンナイトな風景」と思い込まれている節があるようだ。かくいう私自身、イスタンブルへは何の基礎知識も持たずにこの時はじめてやってきた訳だが、ここの緯度は日本での仙台から盛岡あたりとかなり北に位置し、前述のように街の真ん中がボスフォラス海峡で北は黒海、南はマルマラ海とエーゲ海、東西をアジア大陸、欧州バルカン半島に囲まれ、四季に富み、東京よりも冬寒く夏暑い、海と緑の古都である。これまた夜に到着し、宿へ向かう途中のマルマラ海沿いを走ったバスの中で見た景色は今でもしっかり鮮明に覚えている。「車窓から見る海に浮かぶ船の明かりと、陸の上に照らし出されたモスクの尖塔群」というのはガイドブックの決まり文句だが、まさに定文そのままのこの景観は思い出すたび胸をうつ。
 これはあくまでも私の主観だが、エジプトという土地の持つ強烈な異質感には、ある意味で独特過ぎるが故に他の侵入を拒むような殻が存在する。トルコにはエジプトの様な日本にない異質感だけでなく、どことなく私達と近しい同郷の匂いや風の薫り、そしてあわれみといった情念がある。イスタンブルは、異質なのにどこかが懐かしい。
 数日間のトルコ国内の旅行で私は、この地に留学する決意をした。これから将来イスラムを知っておくこと、英語ばかりでなくそれ以外の言語と文化にも触れられること、日本や他の先進諸国では経験できない生活があること、先人がほとんどいないような道であること。決断のきっかけになった理由はいくらでもあるけれど、とにかくトルコの、イスタンブルの土地の空気が居心地よかった。独特な地形の海と陸とをおおう夜霧が、排気ガスや道端のチリが、人種も歴史もいろんな全部が海風によって入り交じり、「そんな何でもあり」をも同一色に染上げていく街の威厳が、とても暖かく強く感じられた。
 だから、「この街に住む!」と叫んだことは後悔しないし、いつまでもこの決断の気持ち忘れない。

 父母はさぞ驚いたことであろう。よく言えば日本では得られない貴重な経験に溢れているが、悪く言えばすべてがちがう世界。こんな世間知らずの子供が生きていけるのだろうかと、不安になっていたはずに違いないが、快く送り出してくれた。共に旅をし、私と同じ感触を持ってくれていたのであろうと感謝している。

2、トルコの生活 — 異文化社会の中での四年間

 1997年6月にある現地大学受験とそれまでの言語学校の手配、あと簡単な挨拶程度のトルコ語くらいは準備して日本を旅立った私だが、住む場所も決めず面倒を見てくれる人も無し。それで楽しいだけの思いをして暮らしていけるほど十代の海外単身生活は甘い世界ではない。しかもそこはイギリスやアメリカではなくトルコである。種々様々な不足を補うための、それなりの努力と苦労を必要とする。
 別に私は、自分が特別で特殊なことをしてきたとは思っていない。所詮、人の苦労というのは相対的なもので、喉元過ぎれば熱さは忘れてしまうし、
「迷いと悟りは背中合わせ、私にもそんな苦労があったかねと思えば、どんなことでも乗り越えられるよ。」
という祖父からの助言もあって、いつも努めてノホホンと生きるようにしている。
 それでもトルコでの生活には、人として最低限備えるべき知識や成熟度、社会的適応性と問題対応能力、水道光熱費の仕組みから、はては酒の飲み方や男女の話に至るまで、生きていく上で覚えなければならない沢山のことを教えてもらった。特にはじめの一、二年目には、それまでの東京での生活には縁のなかった異文化や生活習慣の相違に随分と影響を受けたし、一風変わった仲間たちにも出会うことが出来た。
 だからここからはそれら貴重な思い出の中から、日本とトルコの間でいくつか比較の素材を引き出しつつ、当時を顧みてみたい。

 異文化から受ける影響や印象は人それぞれなわけだが、一般的にトルコと日本の間には、以下の様ないくつかの大きく異なる点がある。

国力と豊かさ 経済力(一人当たりGNP,5000ドル)と社会の成熟度の差

歴史と宗教  アナトリア文明、ギリシャと東ローマ、オスマントルコ等 
         様々な異文化・異宗教が重なりあっている

民族と国家  国民国家の構成(混成した多人種多民族が1国家内に)

 これらのような政治経済、歴史、文化が複雑に絡みあい、そこに「文明の交差点」というような地理的な要因も加わって、現在のトルコ共和国は成り立っている。以下には、こういった現状の中で、トルコの社会や学校制度など具体的な部分はどうなっているのか、記したい。

 ・社会の慣習「お役所仕事はインシャッラー(ある程度、運がよけりゃ)」
 そもそもが、右記のような背景など当然知らずに意気揚々と乗り込んでいった日本人は、まずはじめトルコに生きる上での基本スタンスを学ぶことになる。それがこのインシャッラーという言葉だ。辞書には普通、神のご加護があれば、神のご縁が戴けたなら、などとあるが、運がよければ、と言う方がはるかに近い。悪く言えば「てきとう」。そんな適当感覚にて社会が成り立っている。
 例えば役所や学校の事務登録で日本と手順などが違うというのならまだわかるが、基本的に「正式な公式」というものに100%を求めてこない。つまり提出の期限や内容にミスがあってもある程度までなら許されてしまう。進級テストの成績なども運がよいとたまに融通が利くし、留年が一転、国の恩赦で全員進級というのにも二年連続で遭遇した。はや、ありがたい文化だ。
 その分、役所や学校側も告知・通知を適当にしか知らせてこないし、警察での外国人滞在登録申請書など、中には絶対に間違えてはいけない書類もあるので、誰もが臨機応変な生き方を覚えていく。賄賂の要求にも対処できるようになる。ちなみにこれは余談であるが、大学でしっかり何度も確認を続けたのにもかかわらず落第・退学となってしまった人の話というのも聞いたことがある。それも神のみぞ知る人生だからなのであろうか。
 根本的な問題点に言及するならば、これらの事象は出し手・受け手双方の道徳観や倫理観の欠如に因ると言えなくもない。ただ私には一概にそれらのせいだけとは思えない。基礎教育の徹底不足による無知さや生活環境の厳しさによる心の荒みにも原因があるあるだろうし、それに日本の清貧の思想とは違ったイスラム教の喜捨の精神の弊害、つまり他への依存や甘えが度を越えてしまって、このような傾向が起こり得たのではないだろうか。

・学校教育と男女の性差別
 義務教育は8年制だが、特に女性高齢者の識字率は低く、貧困層の未就学児労働の問題もある。男性は徴兵制度によって学生終了後に1年半から2年前後兵役に就くため、特に地方の貧困層男性にはこの期間は基礎教育を受けられる貴重な機会で、なかなかの効果を上げていると聞く。ただ収入的には打撃を受けるし、徴兵を嫌がる人は多い。金銭的余裕のある人は海外に行くし、万年学生をやって逃げようとするが、結局最後には徴兵される。
 女性に対してはいまだに地方に行く程、家の中に居ろというイスラムの教えが強く、中には迷信や誤解、暴力によって振り回されて苦しんでいる女性も多い。ただ私達から見たら性差別なことが、その女性自身が差別と認識していないこともある。テレビの討論番組の一コマで、「家から出ず家事だけさせられている主婦が、暴力によって夫の性的欲求を常に強いられる」という環境を、それが当たり前だと妻の方から強く主張していたことがあり、それを聞いて愕然とした。いわゆる男性からの自由・平等・独立といった西洋的フェミニズムの押しつけが、果たして全ての環境において正しいのかどうか。そしてどこまでが女性である前に人間として有すべき権利のボーダーラインなのか、考えさせられた。

 トルコの大学はほとんどが国立で、日本人からみれば学費は安い。外国籍の学生は3倍に上がるがそれでも文学部系で年間十万円程度だ。大学入試は日本でいうセンター試験1発勝負。なかなか厳しい。しかも自国に於いて高等教育がすべて母国語のみで受けられる国は世界でもほんの一握りで、日本語、英語、フランス語、ロシア語、ドイツ語の国程度だと言われている。だからトルコでは余計に語学力と単語の記憶力が求められて、詰め込み教育と記憶力勝負の成績評価が大学内にはびこっていたと私は感じている。
 大学の友達たち、英文学部だったから女の子ばっかりで留学をして西洋文化を知っている子たちが多かったが、スカーフをかぶった子たちもわずかにいた。けれど西洋になじみが深くても日本人と好んでなじみ深くなってくれる子は居らず残念でならない。その代わりに、数少ない同窓の男たちとはとても仲良くなれた。毎日のように一緒につるんで遊んでいたが、遊ぶといってもキャンパスを散歩して、座って話して、てな具合。町に繰り出して繁華街で酒を飲むトルコ人は巷に沢山いても、毎週金曜日の授業後に皆で連れ立ってモスクでお祈りし、私は後ろのほうで一緒に座って礼拝見学。その後はアルコールでなくチャイを飲み交わして人生語る。同じクラスにいたアメリカ人でさえ、「君はジーザスをどう思う?日本の神話での人間の誕生の仕方を教えてくれ」と突然聞いてくる輩だ。不思議と信心深い人間ばかりがまわりに溢れていて面白かった。日本語には芋洗いという言葉もあるが、あっちこっちの国原産の芋で磨かれた成果は如何ばかりだったであろうか。同じことに泣き笑い、少なくとも世の中にはいろんな奴がいて、いろんな考えや正義があるんだ。という程度はわかるようになってきた。

 私が住んでいたアパートのすぐそばに小学校があって、窓からは校庭が一望できた。トルコの小学校では毎朝朝礼を全校生徒揃って校庭で行っていたのだが、そこでは毎朝子供達が真剣に、全員大声で唱和する。幾度となく朝この声に起こされてきたのであるが、その中の二つが「アタトゥルクは素晴らしい!」「トルコ人といえることは、なんて幸せなんだ!」という標語だ。アタトゥルクというのはトルコ共和国建国の父と呼ばれる人物で、彼は明治政府を参考にして建国を進めたのだが、これはまさに教育勅語そのものではないだろうか。単なる小学校教育のみに留まらず、そこから長期的に拡げる国民意識の高揚と、一権力者の崇拝による国家の結束強化に繋がっていく。正直、これを聞いていた当時は、「これほどの悪法はない、直情的なトルコ人を思想統制し独裁主義を蔓延らせる原因だ」と考えていた。だが、本当のところはどうなのだろう。今改めて考えれば考えるほど、迷うし答えがでない。それこそ現在の日本国にこそ、この手法を必要とする部分もあるのではなかろうか。

民族の気質 個性の色
   共通性
 この地は人種の交じりあいが複雑で、肌、眼、髪、それぞれの色がさまざまに組み合わさっている、それこそ民族のるつぼといった感じだ。トルコ共和国人には一般的に大きく分けて、トルコ系、クルド系、アラブ系、スラブ系、地中海系、ロシア系、あとイラン系などの人種がいると当時聞いたことがある。クルド人、アルメニア人大虐殺など歴史の闇の部分があって、トルコ政府が公式統計を発表したことはないそうだが、特にイスタンブルなどの大都市では、褐色の鬚もじゃ男と白人金髪が幼馴染なんてこともしばしばである。
 そんな色とりどりの先祖、混じりあった血であっても、国境線でまとめられた「トルコ共和国民という名の民族」というだけで共通の気質が生まれくるから不思議だ。みんな自国が大好きで、「トルコ共和国人」という血を誇りにもつ直情型な性格。何事にも批判されるのを異常に嫌って、合理的に論破するのがちょっと苦手。少しでも否定されようものなら直情的に相手と立ち向かうので、サッカーで欧州のチームに勝ったならもう街中大騒ぎだ。ナショナリズム云々の見事な表れだが、チームが負けると結構しょんぼりしておとなしくなる。人為的、政治的に引かれた国境線によって一つの国が出来、国民に国民性が出てくる。後世の人間の性格を、歴史上の治世行為が結果的には影響を及ぼしているということか。人は人に対してそこまで偉く、また歴史の悉くは繋がっている。そう考えると恐ろしくなる。

  独自性
 そんな共通性に加えて独自性に目を向けると、どんな系統の人種でも故郷が同じだと性格が似ている。つまり人の個性というものに、生まれ育った土地「色」が強く顕われてきていると感じる。「生まれつきか環境か」「Nature or Nurture?」の命題も、日本にいた高校生の時分には、人の個性はすべて生まれついての民族性次第、個人次第。としか思っていなかったが、トルコに来て見ると、人の個性は血よりも環境の方にさらに強く依存していた。こんなに血が混ざる風土に触れてみないと本当に考えもしなかったろう。世の中わからないことだらけだ。
 大学の卒論にも書いたが、それから私は人の思想と行動形態、治世状態はそれらの人々が暮らす土地の気候風土、地勢、環境に強く依存するものだと考えるようになった。そして治世者は地勢を把握する知性を以て、その国土に適合した教育と政策を施さねばならないと思う。

・テロリストのモラル
 もう一つ、トルコ独特の治安問題の話を挙げてみたい。近現代いつどの場所においても爆弾テロなどの破壊行為は続いている。いずれの事例も問題の根は深く、トルコに於いてもクルド人独立派組織PKKとトルコ政府軍による報復合戦と化した武力衝突は世界中のメディアで大きく取り上げられた。数え切れないほどの死者を出したこの争いも99年にPKKの親玉オジャランが逮捕されて一応表面上の争いは終結したのだが、私もイスタンブル市内で幾度かテロに遭遇をしてきた。役所の爆発、旧市街観光地での爆弾、自宅近くカフェの爆破、英国系銀行HSBCの爆破、警察の詰め所への自爆テロ。色々の目的があり武力で破壊し人を殺す。こんなことが許されるわけはないのだが、その手段と傾向をみるとテロリストの人としての心が見え隠れする。経験したうち半数くらいは大量に死者を出したし、私も私の親友も極めて近い場所にいて巻き込まれかけたことがあった。筆舌に尽くしがたい悲惨な現場を見たこともある。ただ、中にはあえて誰も傷つかぬよう真夜中に起こしたり、デカイ音だけ出す音爆弾というのも使われたりして、余計に「テロさえせねばならぬほど苦しい我等に気づいてくれ!」という訴えが聞こえてきそうで、単純に片方を怨むことができなくなってくる。どちらが本当の正義かなんて、誰がわかるのだろう。チェチェンの独立問題で、亡命したチェチェン人が数年前イスタンブルの高級ホテルに立てこもった事件があった。この時に彼らが取った行動は、北オセチア共和国の学校占拠事件とは違って、宿泊客の人質を丁重に扱い誰も傷つけずにただひさすら館内放送でチェチェン行進曲を大音量でかけ続けただけだったらしい。笑い話にもなりかねないが、血の流れない紛争ならば、それでいいじゃないか、と思う。

3トルコの社会

社会にできること・できないこと

・地震

 イスタンブルにひとり居を構えて二年。大学にもようやく慣れて、トルコ生活の右と左がようやく区別つき出した頃にトルコ北西部で大地震がおこった。1999年八月十七日午前三時頃、イスタンブルから東へ100キロほどのイズミットという街を震源として、M7.4の大揺れがきた。

 この時期、大学の夏期講座の最中で、この夜私は次の日の授業へ備えて早々に床についていた。ベッドの中で揺れを感じた時には寝ぼけていたので、布団からは出ずに足元のタンスが自分の上に倒れてこないかチラッと見て、部屋の中でもお皿が割れたり物が落ちた音もしてないし、まぁいいか。と、また眠りについた。それから数分たって、

 「でもいや待てよ、ここどこだ?トルコだ。地震か?大きいな。震度も5弱くらいだったな。トルコの建物ぼろいよな、いつも崩れやしないか心配してたよな。あれーー」

と、アパートの上の部屋からも物音がバタバタ立ちだして、ようやくなんとなく事の重大さに気づきだした。そして窓を開け外を見ると、混乱して外へ飛び出した人々と自動車の大渋滞。停電でヘッドライトの明かりのみの真夜中に怒声とクラクションが鳴り響く。地震体験のほとんどない彼らは、みなパニックになって街から逃げ出そうとしたのだ。しかしどこへ逃げるというのだろう。普段から避難経路も考えていないし、避難場所もない。そもそも大地震が起こって自動車で家財道具積んで逃げ出して、そしたらいたるところで大渋滞だなんて、日本人にとったら常識知らずも甚だしい、自殺行為だ。

 とりあえず揺れの大きさに耐えたこの建物と周りの建物を確認した。停電、外は大混乱、ニュースで伝わる前にできたら日本に連絡を入れておくかと、受話器を上げたらまだこの時点で電話回線は生きていた。地震があったことと、無事だからテレビで一報が入っても心配しないようにとだけ実家には伝えておいた。停電だけれど私のマックはノート型。ひと通りネットでニュースを確認したら、直後の情報では震源地近くの軍隊宿舎が倒壊とだけ流れていた。そうなると被害はもっと大きいはずだと大体想像がついたので、やはりここは日本人。水の確保、扉を開ける、靴を履く、防寒着、懐中電灯、と防災グッズ一式準備し、様子を伺いにアパートの4階にある部屋から外へ出てみた。するとそこにいたのは、一人で右往左往している隣の部屋のお父さん。若い人にはドラクエで街中を歩いている人の動き、と言えば分かってもらえるだろうか。まさに一体何をどうすればいいのかわからずに途方に暮れていた。とりあえず今は車で逃げずに、避難道具を揃えて余震に注意が大切と助言をしておいた。

 これだけ冷静に地震に対処できる日本人と、パニックを引き起こすトルコ人との違いは何か。それは数多くの地震経験と防災教育の大きさに他ならないと思う。地震だけでなくどんな大災害に対しても、対応の知識と心構えをどれだけ日ごろから備えているか。これがいかに大事なことだったのかと身をもって感じた。それにトルコ人の持つ地震への恐怖心の根幹には、街中の住宅建造物に対する耐震強度への不安もあるだろう。ほとんどの建物の骨格は雑な鉄筋?のコンクリート、壁は軽いブロックを積み上げ漆喰で固めただけの作りであったと思う。建設中に見たら「この中には住みたくないな」と日本人なら誰もが感じるはずだし、よくこれであの地震に耐えたなと逆に感心したくなる。

 ならば政治や社会にできる備えはなんなのか。防災対策、対応の知識など、おのずと答えは出てくるだろう。逆にどんなに備えや対策を講じてきたって、いざという時の国民の心と行動までを政府が掌握できるほど、政治はたやすいものだろうか。  

 当時の国家元首、エジェビト首相はこの地震に際し、

「おお神よ。あなたは如何ほどの試練をトルコに与えるのか」

と語った。ときに同情的に、或いは首相は無責任だとメディアは報じたが、社会と政治と人の力が遠く及ばぬ程に、自然の力は強い。社会にも出来ることと出来ないことがある。この地震による死者は、1万5421人。行方不明者はその数倍に上ると言われている。

・アスファルトの重み
 しばらくして被災地の状況が明らかになり、震源地付近や地盤の弱い地域ではそこにあった街すべてが壊滅。震源から100キロ離れたイスタンブルでも貧困層のバラック住宅などが崩れているのを目の当たりにした。そんな中で観光地の歴史遺産の被害も心配だったのだが、実際は歴史的建造物のほうがはるかに地震に強かった。
 イスタンブル郊外にはトプカプの城壁というのがあって、旧市街をぐるっと一周取り囲んでいる。これは15世紀にオスマントルコ軍がビザンティン帝国を攻略する際の大変な猛攻にも耐えた、難攻不落の城壁である。何百年と経つ遺跡であったので90年代に政府が補修の手直しをしたそうだ。この城壁、大地震の際に当然被災したわけだが、なんと近年補修された部分だけが崩れ、何百年も前に建てられた部分はビクともしなかったらしい。
 さらにイスタンブルを代表する歴史遺産であるモスク(イスラム教の礼拝堂)の数々。有名なアヤソフィアやブルーモスク、スレイマンモスクなど、いずれも建設されてから4~500年が経っている。アヤソフィアなど建立1500年近いはずだ。それが今回どれもまったく壊れなかった。それどころか1ミリも石がずれることなく、昔からイスタンブルで一番安全な場所はスレイマンモスクの中だ、とまで言われていることの証明になった。
 このような、名実共に歴史を支えているモスク。これは日本での神社仏閣のようにトルコ人の生活に深く根付いている。例えば「イェニチェリ」という、オスマントルコ帝国の最強精鋭軍隊の採用試験会場にもモスクが使われていた。幾度となく行われた試験によって磨り減った足場が、今でもスレイマンモスクに残っている。私も試験に挑戦し、見事に足がつって精鋭軍には入隊できなかったのだが、そういった古く長い歴史と今この瞬間が重なり合う石造りのモスクの強さと意義。これは日本で言えば、法隆寺の夢殿で聖徳太子と共に瞑想をさせてもらえるようなもので、非常にうらやましい。
 この街に道路一本引く者は、この歴史の上に直接アスファルトを塗り固める様なもので、責任の重さを直に負うということである。過去から現在へ何千年も変わることなく積み重ねられてきた緑の地形。教科書に載っている過去の偉人や歴史が、小さな政策一つでたやすく直接塗り替えられる。なにげない小さな行動の一つ一つに、大きな重みと責任が乗っかっているのだ。そう思うとき、数千年積み重ねてきた人間の歴史は軽いのか重いのか、それとも現代人の行いはおこがましくも過去に対してはるかに崇高なのか。果たしてどうなのか。過去と現在が繋がりあい、悠久の時がありありと目の前に存在するこの街で、人間は悪魔か神かの両極にしか成り得ない、と思えてしまった。アスファルトはそのうち世界遺産になり、法隆寺はただの材木に?ここまで思い詰めて、直情的で極端に単純なトルコ人の性格が、なんとなく理解できるようになってきた。矛盾の中に真理があって真理は矛盾するのか。地震を経て、こんなことばかり考え出していた二十歳の私だった。

・人と自然と歴史のかかわりあいかた
 もう少し現実に戻って、自然と人の共存についても気づくことがあった。何千何万年と変わらず続いてきたボアジチの海と緑を人が壊す。山河の地勢はあっという間に宅地に造成されて、自然の情景を失う。このことに対する責任は、無いのだろうか。
 ボアジチ海峡で景色を眺め釣りをし、海の恵に感謝して魚をいただく。海風に吹かれて山河を見つめていると、自然に対する畏敬の念に溢れてくる。そこにはいつも海峡があって、今この瞬間も海は流れる。彩り豊かに姿をかえて、まるで生きているかのようだ。月夜の遊覧船の下にも魚は泳ぐ、山が削られ造岸されようと、海水は黒海からマルマラ海へ流れる。私は思う、環境施策の指針を人が深い思慮で計画し、それを中心に自然と共に、人の生活を展開させねばならないと。大地震に逢い、海で触れて得たこの感覚がのちに、私を英国に於ける政治学へ誘っていく。
(ボアズの写真) 

・人と神との殺し合い   民族と宗教の歴史の理解
 トルコ共和国は国民の99%がイスラム教徒であるが、オスマントルコ時代からこの土地の人々は他宗教に対する寛容性が際立っている。イスタンブル市内にはモスクの他にも歴史的なキリスト教教会やユダヤ教会がいくつかあり、当然時代の変遷によって多少の増減はあったろうが、古くからのキリスト教徒街やユダヤ人街に今も多くの人が住む。どの宗教でも、異教徒はオーケー、異宗派はアウトという傾向があると言われている。異教徒はイスラムをまだ知らないからなんだと認め、異宗派は逆らえばすぐ抹殺してきた。
 さて、そんなトルコ人は日本人が大好きだ。ほぼ例外なく全員が大好きだ。日露戦争で国境争いをしていた憎きロシアを破ったからだとか、和歌山沖で座礁したトルコ船を地元の漁師が手厚く看護したエルトゥール号の美談のおかげだとか言われているが、本当はもっと単純に、言葉も人情味も似ていて互いが分かり合い易いからかも知れない。いずれにしろ、好かれているのだからありがたい。
 人が好きならこちらも好きになる、相手が嫌いならこちらも嫌いになる。こんな簡単そうで、けれど万人が出来そうもないのが宗教戦争と民族紛争解決の難しいところだろう。例えの小話に、元来オスマントルコをどことなく好きになれなかった欧州人は、トルコ方面から運ばれてくる不細工顔の七面鳥をターキー(トルコ)と呼んだ。ところがそんな仕打ちをされているトルコ人たちは今でも、七面鳥を同じ理由でヒンディ(インド)と呼んでいる現実がある。トルコ人の日本人に対するイメージはいまだに「腹切りサムライ寿司ゲイシャ」の程度で、私の親友がトルコで女優業をしているのだが、彼女はトルコで仕事を始めてから十年以上経った今でも、教育の行き届いた報道関係者からでさえゲイシャと着物を求められる。こんな不理解はザラにあるのだ。
 それを解決する為には先ず、自国の文化と自分のアイデンティティを確立することであろう。トルコ人の先祖は蒼い狼という伝承を持ち、チンギスハンもモンゴル人も全部トルコ人だと言い切る。正しい情報か間違った歴史かどうかは別にして、そう学校で教えてしまうくらいに自分の文化と民族を誇りにし、強気な精神と意志を持つ。海を見て、山を見て、自民族が生きてきた大地の、昔の人が見たのと同じ景色から何かを感じ得る感性を養うことの大切さを知る。
 各民族が入り交じった血を持つ人間が世界中に広がります。その中で自己の生れた土地が自分のアイデンティティだ、という感覚から新しい光が見えてくるのではなかろうか。


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