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【‘‘零れる、言葉から’’】

ふと、自分がこれまでに綴ってきたものを読み返すことがあります。
読み返しながら、思うことがあって、それは今の私があの頃に書いたものをもう一度書けるだろうかということについて考えることがあるということです。
文章を記している間は、苦しいことや悩み事などのことは忘れていられる。
作品が完成されるまでの間の私の意識は別のところにある、そのような感覚があります。
書いてきたものによっての熱量はそれぞれ違うものだったりします。
あの作品を書いたのは、だいぶ苦労したなとか、あの作品はちょっとした待ち時間に書ききってしまったものだとか、作品を読み返すと、あの頃の記憶が鮮明に蘇ってくるものがあります。
私が尊敬する文筆家の篠田桃紅先生の著作に記された文章にこのような言葉があります。

水墨は自然のなかへと誘う最上の道具だと言える。
そして究極は、描いているほうも、見ているほうも、だんだんと自然に溶け込んで、最後はなにもなくなってしまう。

『一○三歳、ひとりで生きる作法』篠田桃紅 (P.51より引用)

作品が完成された筋道を辿れば、それはまた蜃気楼のようで、つくられたものは思いが可視化され情感が宿ったもののような存在であるということが引用文から感じられました。
書いて完成させた事実はあるものの、夢中になって自分の気持ちを言語化させたこと、それは作品をつくる上で続けなければ、また書き手の作品はそこで完結したという結果だけが残るものだと思います。
どれだけの時間を費やしても、書いていれば、いつかは完成させることが出来るものだと思います。
やめなければ、それでいい、書くことに疲れたり、書いていくものが見つからなければ、一度立ち止まり、休めばいいものだと感じます。
私にとって、noteは好きな時に、好きなものをただ書いているだけであり、誰かの指示に従いながら作品を書いているわけではありません。
零れた言葉を掬って紡ぎだすこと。このひとときこそが至福であります。

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