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【安藤家住宅】300年前に建てられた豪農の家

はじめに

 南アルプス市西南湖にしなんごに所在する安藤家住宅は300年以上前の江戸時代後期に建てられた名主の家です。建築年が特定されていることや保存状態がよく当時の豪農の姿を伝える一級の資料として高く評価され、国の重要文化財に指定されています。
 こちらでは季節に合わせた節句飾りや紅葉のライトアップなどを行っております。2月の訪問時には「安藤家住宅のひなまつり」と銘打って屋敷内を雛人形で飾り桃の節句を祝っていました。雛人形については「横沢雛」という地域雛があることと小笠原流礼法の雛飾りが有名です。こちらは次回紹介することにして、今回は安藤家住宅を紹介します。

道祖神の隣にある案内看板
「南アルプス市ふるさと文化伝承館」からも
安藤家住宅をアピール

安藤家住宅

 安藤家は、西南湖村(甲西町を経て、現在は南アルプス市)で名主を務めた豪農です。元は武田家の家臣で小尾姓を名乗っていましたが、武田家滅亡後は一時徳川家に仕えます。甲斐が直轄領となり、過去を悟られないように妻の安藤を名乗りこの地で帰農したといいます。江戸時代中期からは代々名主を務めたといいます。
 この家は、敷地は約4400平方メートル(およそ1300坪)あります。母屋は宝永5年(1708年)の建築と確認されており、300年以上前から残る建物であるとともに江戸時代の豪農の生活を知る資料として評価され、建物と敷地が1976年(昭和51年)、国の重要文化財に指定されています。
 1980年(昭和55年)に安藤家から山梨県に寄贈され、1982年(昭和57年)に大規模な修理が行われています。山梨県の所有にて管理を甲西町(南アルプス市の一部)へ管理委託されていました。平成の修復工事後の2008年(平成20年)に山梨県から南アルプス市に譲渡されています。
 余談ですが、筆者が講義をうけた経済学の教授は都内に住んでいましたが、山梨の安藤家住宅といって保存状態や文書について絶賛しておりました。それほど経済の研究者から見ても価値の高い家だったわけです。

水田地域

 この辺りは、南湖なんごと呼ばれ東に釜無川、西に滝沢川があり、さらに下流では富士川へと合流する地域で稲作に適するとともに水害に悩まされる地域でした。
 南アルプス市でも原七郷はらしちごうと呼ばれる、白根地区(西野、在家塚、上八田)、櫛形地区(上今井、吉田、十五所、沢登、桃園、小笠原)の七郷九ヶ村は「月夜でも焼ける」といわれるほどの干ばつ地帯でした。扇状地から遺跡が出土するのもこの辺りです。
 一方で、この辺りは湿地帯で田方と呼ばれ甲西地区(南湖・大井・五明ごめい)、若草地区(藤田とうだ三恵みつえ)はたびたび川の氾濫による水害に見舞われてきた地域です。

昭和時代のものと思われるボートが残されています

 南アルプス市でもこの辺りは稲作地域のため地方病(日本住血吸虫症)という寄生虫による風土病の有病地でした。土間には、中学生が作った地方病の絵本『中学生が伝える恐ろしいやまい地方病』が置かれています。水田で働く農民たちを長く苦しめてきた地方病ですが、そうした歴史について一切説明がないのが残念です。

『中学生が伝える恐ろしいやまい地方病』

 地方病については、杉浦醫院が専門の資料館です。拙稿をご覧ください。

長屋門

 前置きが長くなりましたが、安藤家住宅の建物を見てまいります。
 まず通りに面して長屋門があります。母屋より後の1782年(天明2年)建築といわれています。茅葺きで中央に出入口であり、左右が住居になっています。もともとは武家屋敷で家臣の住居としての長屋と、門の屋根を合わせた作りに由来します。安藤家は徳川に仕えたあと帰農しておりますので、建物などに武家屋敷の形を取り入れていたのでしょうか。

表から見た長屋門
中央の出入り口より
敷地の内側から

 長屋門は左右の住居部分に使用人が住んでいたといいます。現在は平成の修復工事の様子を紹介する展示スペースや物置になっています。
 平成の修復は、昭和の修復から20年を経た2006年(平成18年)から2007年(平成19年)にかけて行われました。茅葺き屋根の葺き替えを中心に痛んでいた漆喰の修復などが行われました。修理完了の翌年の2008年(平成20年)に、所有権が山梨県から南アルプス市に譲渡されています。

平成の修復の様子

主屋

 主屋は茅葺きの入母屋造りです。中は大きな土間の他、玄関の間、中座敷、奥座敷、居間、祈祷室などから構成されています。
 江戸時代中期の1708年(宝永5年)の建築です。「宝永5年」と書かれた「棟札」が柱に残されていたことで年代の特定に至りました。
 宝永5年という年は、前年に宝永4年ら大地震が起こり、富士山では宝永の大噴火を起こしています。地震の被害を受け安藤家ではこの地に家を新築したようです。

土間

 見学は土間から入ります。大戸口という引き戸から中にると土間で、左手に受付の職員のいる小部屋があります。
 土間の一部が馬小屋だったというので、職員の部屋のその横の空間がかつての馬小屋だったかもしれません。
 土間で靴を脱いで中に上がる見学コースです。

土間の上がりには御殿雛が飾られていた

 土間には囲炉裏があります。土間で食事の仕度をして囲炉裏を囲んで家族が集ったといいます。

普段の土間の様子
出典 : 南アルプス市文化財mナビ 

居間

 土間の隣が居間です。ガラスケースには江戸時代の名主の行政文書などが展示されているといいますが、この時期は雛飾りになっています。
 部屋の鴨居が低めに出来ています。刀を振っても振り下ろせないように用心しての作りだといいます。

雛飾りのケースの置かれた居間
居間の様子
出典 : 山梨新報社『山梨の美術館・博物館』

祈禱室

 居間の隣が祈禱室で、主人たちが寝起きに使っていた部屋だといいます。

書院風の棚は雛飾りでいっぱい
祈禱室の様子
出典 : 山梨新報社『山梨の美術館・博物館』

式台付玄関

 居間の反対側に玄関があります。総檜で主屋から玄関部分が突き出ている造りです。こちらから出入りするのは当主と身分の高い客人のみです。
 こうした客人用の玄関は武士の家には必ずありましたが、民家にあることは珍しいといえます。幕府の役人を迎えいれるために設けられていたといいます。こちらも長屋門と同じように武家屋敷の形を取り入れていたのでしょうか。

式台付玄関
雛飾りが見える
玄関から外を望む普段の様子
出典 : 南アルプス市文化財mナビ

中門

 式台付玄関へは中門を使用します。当主と身分の高い客人か通ることは許されませんでした。また、農民たちはこれより先に入ることが許されませんでした。

中門

 銅板葺きの屋根には安藤家の家紋、下がり藤がデザインされています。

安藤家の家紋

中座敷・奥座敷

 中座敷・奥座敷は、家の主人が客を迎える場所です。特別な客は、式台付玄関から上り、中座敷を通って奥座敷に通されました。
 広い日本庭園が望めます。主人と客以外は家族でもめ奥座敷ったに足を踏み入れることができない部屋だといいます。こちらも鴨居は低く作られています。

中座敷・奥座敷
奥座敷から離れの茶室を望む
普段の中座敷と奥座敷
出典 : 南アルプス市文化財mナビ

欄間と鶴の形をした釘隠し

奥座敷側の鶴の釘隠し
中座敷側の釘隠しです。
奥座敷から避雷針の松と茶室
庭から避雷針の松と茶室

茶室

 主屋から渡り廊下でつながっれた茶室かあります。1861年(万延2年)の建築です。

茶室へ向かう渡り廊下
奥が茶室

 茶室はお茶を嗜みながら、客人をもてなす場所です。茶室の床柱は榎木で、ここに竹の子面という飾りが施されています。
竹の子面とは榎木の下のほうを斜めに削り、竹の子のような木目を見ることが出来るようにしたもので、出ている年輪の数が多い方が価値があるといいます。

茶室
水屋も備えています
普段の茶室
出典 : 南アルプス市文化財mナビ
小笠原流礼法の雛飾りがある
茶室から見た庭
外からの茶室

文庫蔵

 文庫蔵は文書などを保管していた蔵です。文庫蔵入口のパネルの写真の女性が最後まで住んでいた安藤家の方です。

文庫蔵の入口

 中には明治から昭和初期の写真と現在の様子を比較しています。また中央に主屋の模型があります。

パネルと主屋の模型
外からの文庫蔵

庭園

 「避雷針の松」と呼ばれる、樹齢350年を越える黒松があります。近くの滝沢川の土手から自生していた松を移植したものです。ここには明治期に取り付けられた避雷針があったことから「避雷針の松」と呼ばれています。避雷針は残されていますが、現在は主屋の裏に避雷針の塔が立っています。

頂上まで入りませんでした
「避雷針の松」の根元

 させに庭には大きな築山つきやまがあります。
 池には鯉がいると聞いていたのですが水が少なくいるのでしょうか。

築山とは人工的に作った山
なぜか分解した灯篭

 池のほとりに奥に魚籃ぎょらん観音があります。魚籃とは魚を入れる籠のことといいます。また、奥にはこの家の屋敷神があります。

魚籃観音
庭の一番奥に屋敷神
屋敷神の前には「見ざる、聞かざる、言わざる」

南蔵、北蔵

 長屋門の隣に土蔵が二つあります。農民から集めた米や家事から守るための貴重品を保管していたところといいます。北蔵は二階建てで1773年(安永2年、江戸時代後期)の建築、南蔵は1864年(元治元年、幕末期)と建築年代は異なります。隣にはかわやの小屋が残っています。

南蔵(左)と北蔵(右)
厠(かわや)が残る

農具の展示

 長屋門から続く屋根塀の利用して昔の農具を展示しています。農具といってもこの辺りが湿地帯で田方というように稲作の道具です。安藤家で使用していたものではなく、市民からの寄贈だと思われます。

農機具を展示
大八車、杵臼、桶など
天秤棒、背負子など
代かきなど田を起こす道具
篩、脱穀機、唐箕

 唐箕とうみ(せんごく)がありました。風を起こしてモミを振るい分ける道具ですが、こちらの唐箕も回転部分の羽が山梨から諏訪地域で見る3枚羽になっています。

3枚羽の唐箕

 3枚羽の唐箕については拙稿で紹介しています。

南湖報徳社

 農具を見たところで、この南湖地域には山梨で唯一現存する「報徳会」があります。報徳会は報徳社、報徳構とも呼ばれ、二宮尊徳の説いた「報徳思想」を実践する結社でした。「報徳思想」とは簡単に言うと農民が自立し豊かに暮らすための思想と実践です。
 安藤家住宅から数10メートルにのところにある、南湖公民館には「報徳会館」とも書かれており敷地内に「(一社)南湖報徳社事務所」もあります。

西南湖公民館(報徳会館)と
右に一般社団法人南湖報徳社事務所

 この辺りは、東に釜無川、西に滝沢川があり、度重なる水害を受けてきた地域でしたので、住民にとって水害からの再興が大きな課題でした。そのため、明治29年に報徳思想を取り入れ、丹沢義吉と入倉善三を中心に報徳講を結成しています。これが南湖報徳社でした。
 若き頃より中心人物として活動した入倉善三を顕彰する碑もあります。

「入倉善三頌徳謝恩の碑」と「報徳謝恩碑」

おわりに

 まずは、安藤家住宅について紹介しました。安藤家の通り沿いに、山梨で唯一現存する報徳会があるわけですが、安藤家と農民の関係は良好だったようです。調べてみると小作を自作農にするため土地を提供するなどしたという話もありました。
 ただ、安藤家住宅の職員は報徳会のことは知っておらず、安藤家について用意された資料しか分かっていないことが残念でした。農具の展示などもあるのですから、安藤家と農民の関係や暮らしぶりの解説があってもよかったのではないかと思うものです。


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