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【不老園】明治大正期から続く甲府の梅の名所(2023.2.25)

はじめに

 不老園は、甲府市東部にある梅園であり、明治、大正期より続く梅の名所です。
 酒折宮の近くの小高い山にあり、甲府市内が見渡せるロケーションです。
5万平方メートルの園内には30種類、およそ2000本の梅が植えられています。
 毎年2月の初めから3月のみの開館となっており、見物客は県内のほか大型バスで県外からも訪れています。
 酒折駅から徒歩15分程度で酒折宮の裏山にあるため、鉄道によるアクセスも良好です。

園内の様子

不老園

 不老園の開館は1897年(明治30年)とおよそ125年の歴史があります。
 甲府の中心部の旧甲州街道沿いにて奥村呉服店を営んでいたの七代目奥村正右衛門(1841年~1924年・天保12年~大正13年)が別荘として、多額の私費を投じて、梅、桜、牡丹等を植栽したものです。

奥村正右衛門の写真パネル

  奥村正右衛門は、この別荘を不老園と名付け一般にも公開しました。 全国から梅を持ち帰り植栽しましたが、特に九州地方の紅梅、小梅、夫婦梅、豊後梅などが多く植えられています。

入園してすぐにある不老園の碑、狸、蛙がお出迎え

 正右衛門亡き後は子息らが守ってきました。1965年(昭和40年)からは財団法人奥村不老園に移行し管理されています。財団法人は昨年、奥村家の当代が亡くなり、実弟で山梨県下最大のスーパーチェーンオギノの社長寛二氏が理事長になっています。
 現在の奥村家は、甲府の旧甲州街道沿いの奥村醤油店としてに名前を残すのみです。

大門

 道を少し下ったところに大門があり入園口となっています。そこで入園料を払います。周囲に見える校舎は山梨学院高校です。

周囲の道路、この先に大門があります
入園口

 手作り感満載の周辺案内図があります。この辺りは酒折宮さかおりのみやを始め、甲斐善光寺、東光寺など古い神社仏閣のある甲府市の東部地域です。

表記にもレトロ感あふれる

 受付で園内のマップをいただけます。左下が入場口で道に沿って園内を上っていきます。岩山を崩して作った庭園のため石を積み上げている箇所が多いのです。梅天神、展望台まで上がり降りて、展示場や長生閣、喜楽庵などの建物のある方へ降りて入場口へ戻ってくるコースが一般的です。

受付で配布されるマップ

園内を進む

 園内にはおよそ20種類の梅があり、時期を少しずつずらして開花していきます。訪問時は四分咲きで、見物にはまだ少し早い状態でした。

冬至梅
鹿児島紅梅
冬至梅
ろう梅
しだけ紅梅

黄梅の小径

 ブランコの奥に黄梅の小径ルートがあります。やや石段が急です。小径の入口にはブランコがあります。

遊具広場のようですが、ブランコだけです
黄梅の小径
黄梅がいっぱい

石碑とかぶと岩

 黄梅の小径から通常の順路へ戻り、進みます。入園口前とは異なる不老園の石碑があります。この石碑は奥村正右衛門が1918年(大正7年)に建立した石碑です。文字は当時の山梨県知事山脇春樹によるものです。

甲州野梅
不老園の横に春樹書とあります

 また、かぶと岩と呼ばれる大きな岩が中腹にあります。

かぶと岩

 また、夫婦梅は有名です。2粒ずつハート形の梅の実が成るそうです。花のおしべが2本並んでいるため、寄り添った実が出来るそうです。

夫婦梅は縁結び、子授けなどの縁起物になっています

芭蕉の句碑

 松尾芭蕉の句碑があります。
 「咲き乱す桃の中より初桜」
 解説板によれば、江戸時代は山桃のほうが山桜や吉野桜より先に咲きました。この句は貞享元年~元禄7年頃の作品であり、句碑は1856年(安政3年)に当時の俳人たちにより建立されたとのこと。

咲ミ堂須さきみだす桃の中よ李もものなかより者川はつさくら

梅天神

 さらに上に向かって進みます。梅天神という神社があります。ここは梅にちなんで菅原道真を祭っています。1977年(昭和52年)に北の天満宮より分祀されたものとのこと。

梅天神前
梅天神付近から中心部方面をのぞむ

展望台

 一番高いところです。梅天神からでも見晴らしはよかったのですが、こちらからは天気が良けれも富士山が見えます。
 JR中央線の酒折駅が見えます。ちょうどコンテナ貨物の列車が通過していました。

高校とその向こうに酒折駅が見えます
貨物列車ブルーサンダー
周囲の山の案内も
甲府駅のある中心部の方角です

 後述しますが、酒折宮の古天神(古宮)へ向かう古道が通っていて渡るために歩道橋が2カ所設置されています。

古道をまたぎます

 長生閣が見えてきました。順路も後半です。この辺りの梅の開花はまだまだの様子です。

瓦屋根の建物が長生閣

展示場

 中は無人ですが写真コンテストの入賞作と大正時代の不老園を写した写真パネルが展示されています。またケースの中には奥村家の資料があります。
地主でもあったので小作証書や出納帳などです。

展示場
写真コンテストの入賞作
大正時代の不老園の様子
奥村家の資料

 大正2年に奥村正右衛門と妻の銅像が盗難にあったことの盗難届、骨董屋から買い戻して現在は隣にある経堂にて厳重管理されいるとのこと

銅像の盗難届
 展示場のとなりにひっそりとある経堂

 狸の小屋というのがあります。大正時代、井戸に落ちた狸を拾い上げてここで飼育していたそうです。

現在は狸の置物が

長生閣

 石碑と同じ大正7年に建築されました。奥村正右衛門が客人をもてなすために作った建物です。休日はカフェとしてお茶が飲めるようですが、この日は建物は開いていませんでした。

長生閣の玄関
長生閣は斜面に建っています

喜楽庵

 奥村正右衛門亡き後の1925年(大正15年)、妻みよのために建設した隠居部屋としての離れです。母屋もありましたが2005年(平成17年)に解体されています。

喜楽庵の入口門
落ち着いた建築
瓦には不老園と文字が入っている

 入園口の大門まで戻ってきて、散策は終了です。途中梅の実を販売したり、盆栽を扱う温室や、おでんを扱う売店などがありました。ウグイスがいい音色で鳴いているのですが、スピーカーから流れていました。

入園口を園側から

甲府北バイパスと酒折トンネル

 園内を散策していると下を道路のトンネルが通っているところが見えます。現在の甲府北バイパスなのですが、当初梅園の山を崩して道路を通す計画でした。しかし、これだけの梅の名所を壊すのはしのびないとの反対意見でトンネルで通過するように計画変更された経緯があります。

石和方面のトンネル出口の上

酒折宮

 不老園のふもとに酒折宮さかおりのみやがあります。酒折宮は連歌れんが発祥の地としても有名です。「酒折連歌賞」の募集も毎年行われています。

酒折宮 出典 : 甲府市HP

 酒折連歌は「5・7・7(問い)」に「5・7・7(答え)」という形式で、後の短連歌や長連歌とは異なる形式です。

 酒折宮の歴史は古く、『古事記』にはヤマトタケルノミコトが東征の帰路にて酒折宮に立ち寄ったとされています。

その際、
 新治にいばり 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
 (新治、筑波の地を通り過ぎて、ここまで幾晩寝たのか)

と問いかけたところ、かがり火を焚いていた老人が、

 かがなべて 夜には九夜 日には十日を
 (日数を重ねて、夜では九夜、昼では十日ですよ)

と返したと記されています。

酒折宮にある連歌の碑 出典 : 甲府市HP

参考URL
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/kamejii/073.html
甲府市HP「連歌発祥の地!酒折宮」2023.3.1閲覧

古天神と不老園塚古墳

 不老園の中門と通用門の間に山中へ向かう小道があります。険しい上り勾配を5分ほど枯草に覆われた道を進むと、ごつごつした岩の中に石室と祠が見えてきます。夏は侵入するのは不可能かもしれません。

石室と祠へ向かう道
枯草でおおわれています
岩が転がっています

 祠は酒折宮さかおりのみやの古天神(古宮)です。

古天神(古宮)

 また、古墳もあります。その名も不老園塚古墳です。 石積みの石室があります。ここは2010年に学院大学が発掘調査をし、7世紀後半の豪族を葬った古墳と推定されています。

不老園塚古墳の石室
解説版があります

おわりに

 以上、古くから甲府の梅の名所であった不老園を紹介しました。
 園内に大正期の建築があるのですが、文化財としての登録もされておらず、母屋に至っては解体されていました。指定文化財にすらならない理由は分かりませんが、個人(財団法人)の所有だから管理が大変になるからでしょうか。

市内の眺め

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