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【井戸尻考古館】曽利遺跡発掘調査現地説明会に行く(2022.9.25)

はじめに

 富士見町教育委員会では、曽利遺跡の史跡整備に向けた調査として、井戸尻考古館北側の私有地について令和3年度より発掘調査が3年計画で進められています。
 本年度の調査は7月から行われ、9月末で終了するにあたり、9月25日(日)に発掘担当者らによる現地説明会が行われました。

ブルーシートのかかった現場

曽利遺跡

 曽利遺跡は縄文中期の遺跡で、中部高地の縄文を代表する遺跡です。長野県から山梨県で多数で見つかっていている土器について、この年代を示す標識土器として「曽利式土器」が用いられています。
 曽利遺跡の調査は1943年(昭和18年)宮坂英弐による調査が最初で、その後昭和30年代より10回の発掘調査がありました。
 第1次となる昭和33年の調査で4号住居址から水煙渦巻文土器などが出土しています。昭和47年に郵便はがきの料額印面(10円)の意匠に採用されたことで全国的な知名度になりました。4号住居址は、考古館前の芝生のところです。

曽利4号住居跡の7点は長野県宝指定
曽利34号住居跡の出土品

 多くの方がご存じのように、井戸尻考古館は曽利遺跡の上にあります。現在では考えられませんが、当時の事情で現在地に建設されました。
 昭和40年代に行われた第3次~第5次の調査は収蔵庫及び考古館建設に伴う緊急調査でした。
 現在、井戸尻考古館について、移転および新館建設の計画が進められいます。考古館が新館へ移った後は曽利遺跡は史跡として整備される方向で検討されています。

現地説明会

 装飾深鉢がほぼ完全な状態で出土したとの報道もあり朝10時にもかかわらず県外からも見学者が多数集まりました。考古館の前で配布資料をいただきます。発掘現場は考古館の北の隣接地のため裏手に移動します。縄文農耕の実験畑があって10月の収穫祭に向けて雑穀類が実り始めていました。

考古館の敷地から発掘現場を見る

 発掘責任者のS学芸員から遺跡の概要と諸注意を聞きます。トレンチ(試掘溝)や出土物の撮影は可能ですが、ネット、SNSへの掲載は控えること。配布資料についても同様です(正式な報告書ではないためだそうです)。
 先にも述べたように、曽利遺跡について3年計画で発掘調査が進められています。今後、史跡として整備するために遺跡の広がりの範囲を確認するためのものだそうです。
 3年計画の初年は第10次発掘調査で、曽利遺跡の北で大花遺跡との境に第1トレンチから第6トレンチまで6本の発掘調査が行われました。

2本のトレンチ

 本年度の第11次発掘調査では、北に向かって真っすぐに第7トレンチと第8トレンチが設定されました。いずれも今後の調査の可能性を考慮してのものです。
 第7トレンチは西側の道路寄りです。集落の端を確認するために道路寄りに設定されたとのこと。ローム層(赤土)の出るまでがたいへん浅くなっています。土を削ってほかの畑の埋め立てに使用したとの地元の証言があるそうです。中期初頭の住居跡2軒と中期中葉の住居跡1軒が確認されました。

第7トレンチの見学、右側が北

 第8トレンチは第7トレンチより8メートルほど内側です。ここは昨年夏に小学生向けに土器拾いのイベントを行い、多数の土器が拾えたため、設定されたトレンチとのこと。中期初頭の住居跡1軒と中期中葉の住居跡2軒が確認されました。炉の石の上に装飾土器など土器2点が発見されていますが、そのほかは小片の土器が多く接合して個体にはならないようです。

第8トレンチで装飾付き深鉢が出土したあたり

 長野日報(2022.9.18付)に現地説明会の記事があります。
記事にある画像の右手、張り出している部分(延長している部分)が炉でその上に装飾土器が発見されました。

 テントでは、出土品の展示が行われていて、他の学芸員やスタッフが質問に答えていました。

みなさん譲りあって見たり撮影していました

おわりに

 昨年に続き、本年も説明会で発掘の様子を見学できました。昨年は雨の中でしたが、本年は晴天に恵まれ参加者は新聞報道では80名でした。考古館の想定よりも多かったそうで、駐車場は車がはあふれていました。
 有名な曽利遺跡ですが、土の下には暮らしの跡がしっかり残っていて、確認されていることはまだほんの一握りなのだと実感しました。どのような集落で、どのような暮らしがあったのか、全容を知りたい気持ちもありますが、土の中にそっとしておいてあげたい気持ちにもなりました。

考古館で裏口から、縄文農耕の畑の向こうに今回の現場

おまけ

 地元の方に石積みの水路トンネルを案内していただきました。明治時代末期のもので、この水路の上には町道と中央本線の単線跡(昭和55年廃線)と現在の複線線路が横並びになっています。
 水路トンネルは完全に円形をしていて、水の通る部分も石積みで覆われています。

手前から奥に町道、単線跡、現在の線路の順に上を通っています。奥の現在の線路は四角い

参考文献
富士見町教育委員会編『曽利 第三、四、五次発掘調査』富士見町教育委員会、1978


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