見出し画像

【山梨県立博物館】企画展「山梨と新聞」を見に行く

はじめに

 本年(2022年)は150年の節目を迎えるものが多々ありますが、山梨における新聞の歴史も150年となります。山梨県立博物館では、企画展「山梨と新聞―知識を広むるは新聞を求むるに在り―」(2022.10.15~12.5)を開催して新聞の歩みを紹介しています。

木々が色づいてまいりました
エントランス前

 なお、山梨県立博物館の概要については拙稿をご覧ください。

山梨と新聞―知識を広むるは新聞を求むるに在り―

 正面のエントランスを入るとチケットカウンターがあり、職員(展示交流員)の方が迎えてくれます。受付を済ませエントランスを進み、曲がると企画展示室が見えてきます。

企画展示室のゲート
展示室は7つのテーマに分けて紹介

 新聞というテーマが身近なメディアであること、また山梨唯一の地方紙である山梨日日新聞社が自らの150年記念事業として紙面を割いて紹介していることもあり、この時期にしては入館者はやや多めに感じます。

見ただけで新聞と分かるチラシ
山梨日日新聞のロゴに似ているような

第1章 新聞がやってきた、第0章 新聞前史

 山梨における新聞は、内藤伝右衛門(1844~1906・天保15年~明治39年)が峡中会社を設立し、1872年(明治5年)7月に発行された「峡中(こうちゅう)新聞」が始まりです。
 タイトルに含まれる「知識を広むるは新聞を求むるに在り」は、この第1号の巻頭の緒言によるもので、新聞の意義を説いています。峡中新聞は8号まで月1回で発行されました。

内藤伝衛門(山梨県立博物館蔵)
峡中新聞 第一号、小倉半紙二つ折り8枚綴りの冊子
出典 : 山梨県立博物館HP

 峡中新聞は、1873年(明治6年)4月の第9号からは「甲府新聞」と改題され、同年7月からは月8回の発行をしています。
 1876年(明治9年)には「甲府日日新聞」とさらに改題されています。
 1881年(明治14年)より「山梨日日新聞」となり現在に至ります。現在でも発行が続けれらている地方紙としては最も古く、全国的に見ても5カ月先に発行された毎日新聞に次いで2番目の古さを誇ります。
 内藤伝右衛門ですが、1879年(明治12年)に主幹の野口英夫(えいふ)(1856年~1922年・安政3~大正11年)へ経営権を譲渡すると出版業へ注力します。これにより、野口英夫の家系が現在に至るまで山梨日日新聞の経営を担っています。
 展示には初期の新聞や関連資料が多数展示されています。また、新聞前史として、江戸時代の、瓦版、口説き節(事件などを独特な調子で歌い伝えるもの)などの資料が展示されています。

第2章 新聞の時代

 山梨における新聞は、一時は12誌を数えるまで次々と発行されましたが、その多くは短命で明治20年までにほとんどが廃刊になっています。
 展示には、こうした 数々の新聞が展示されています。前述の内藤が女性向けに「おとめ新聞」という新聞も別に発行されていました。
 ところで、明治10年代から20年代にかけての新聞は自由民権運動を背景に、政治色が求められていきました。
 展示には、新聞解話会の参加者名簿というのが展示されているのですが、新聞解話会とは、村で新聞を購入して村民に読んで聞かせるというものです。地方においては新聞解話会が政治を議論する場になっていたようです。
 明治時代後半には、日清戦争、日露戦争が起きたことで、新聞の内容は戦地情報や戦局を知らせることに重きが置かれるよう変化してきます。さらに、昭和に入ると、新聞は紙資材の統制のため1937年(昭和12年)から一県一紙に統合されていきました。統合前に6紙(山梨日日新聞」「山梨毎日新聞」「峡中日報」「山梨民報」「山梨民聞」「甲州時報」)あった山梨の新聞でしたが、「山梨日日新聞」に統合されています。
 展示には、戦時中の新聞などがありましたが、紙面は小さくページ数は限られたものです。
 戦後は、一県一紙はなくなり、1946年(昭和21年)「山梨時事新聞」が発刊されますが、1969年(昭和44年)山梨日日新聞に吸収される形で廃刊となり、以降山梨では山梨日日新聞による一県一紙体制が続いています。
 展示には、山梨時事新聞の最終号と、山梨日日新聞を購読するように案内がありました。

第3章 メディアの多様化

 新聞以外のメディアとして1925年(大正14年)よりラジオ放送が始まっています。民放ラジオにおいては新聞社を中心にラジオに参入していきます。
 山梨では1954年(昭和29年)に山梨日日新聞社がラジオ山梨を設立しています。1959年(昭和34年)よりテレビ放送も始めたことで山梨放送(YBS)と現在の社名になります。
 新聞とラジオ・テレビは深くかかわるもののメディアとしての性格の違いから共存を保っていました。また、時代は核家族化で新聞は発行部数を伸ばした時期でした。
 展示には、当時の放送機材が展示されています。これらはすべて山梨放送からの出展です。テープになる前の円盤型の放送用録音装置、取材カメラ、字幕のテロップカードなどがあります。当時は映像を作ることに時間がかかるため、事前に撮影した過去の映像をニュースに使用したのが「資料映像」の始まりでした。
 新聞製作は鉛活字の活版印刷から写植印刷へ変わっていいく変遷が説明されています。
 また、昭和時代の編集局の様子を実物を置いたセットで紹介しています。

こちらは撮影可能
ドラマのセットみたいです
報道デスクの席、灰皿にあるタバコ「いこい」
版組みの活字

第4章 社会を動かす

 明治期の新聞は、大新聞と小新聞で扱う内容が区別されていました。大新聞は政治や事件を扱い、小新聞はスポーツ、観光、和歌、川柳、新聞小説など娯楽中心でしたが、のちに区別がなくなってきます。
 山梨日日新聞は、二代目社長の野口二郎(1900年~1976年・明治33年~昭和51年)が、スポーツや文化に力を入れた人物でした。現在の山梨日日新聞でも地域のスポーツと文化欄がわりと充実している印象なのはその伝統を受け継いでいるためです。
 野口二郎(1900年~1976年・明治33年~昭和51年)について触れておきますと、野口英夫が亡くなると次男である野口二郎が2代目社長となります。二郎は東京帝国大学の学生のまま社長に就任しています。また、のちに政治家として1943年(昭和18年)官選による甲府市長に就任し、1946年(昭和21年)まで務めています。市長就任中は社長を退いていました。戦後、野口はスポーツや郷土研究に力を入れています。
 今回の展示は、明治期の新聞はほとんとが甲州文庫の資料です。甲州文庫は実業家で郷土史研究家の功刀亀内(1889~1957・明治22年~昭和32年)が蒐集したものでしたが、戦後、甲州文庫は、山梨県立図書館へ移管され、現在は、この山梨県立博物館に移管されています。野口二郎も甲州文庫の移管に関係したといわれています。また、「郷土博物館設置構想」を昭和37年に作っています。美術館すらない時代に博物館の設置を要望しているのです。
 野口二郎が理事長を務める野外活動団体の共催で地域を歩きながら歴史に触れるイベントとして「甲州夏草道中」を行ったことが、郷土史研究の機運を高め、山梨郷土会(現在の山梨郷土研究会)の発足のきっかけになったと言われています。
 展示には、県下一周駅伝(昭和27年)のコース図、夏草道中の手形、博物館設置陳情書、第一回信玄まつり資料(当時は信玄まつりでした)など、野口の関係したイベントなどの資料が見られます。

第5章 時代を読む

 新聞の号外の役割と広告に着目します。
 号外は特に発行する規定は新聞社の判断です。戦時中は紙が貴重だったため小さいサイズでしたが、それでも号外は発行されています。
 新聞広告については、峡中新聞の第6号から見られます。ただ本格的な企業の広告としては甲府新聞第15号(明治6年)の洋服仕立て業者の開業の広告が始まりです。また、織り込み広告は明治末から大正にかけてが入るようになりました。
 展示は、帝国憲法発布や日露戦争、明治天皇崩御、二・二六事件などの号外が紹介されています。また、戦時中や、戦後の昭和時代の折り込みチラシなどが紹介されてます。

10月13日の天皇杯優勝で配られた号外

第6章 これからのメディア

 インターネット時代の新聞の役割について紹介するとともに、現代の新聞作成の流れを解説しています。例えば、手帳と鉛筆であった記者の取材道具はノートPCが必須に変わりました。印刷所の様子と巨大なロール紙の説明などもありました。

現在の編集机
現在の記者の取材道具
印刷に使う巨大なロール紙

 中型バスを改造した移動新聞作成車両が展示されています。内部は紙面作成用のPC2台と印刷用のプリンター2台が搭載されていて、学校現場へ出向いて行う新聞学習やスポーツイベント会場での特別紙面作成に一役買っています。また災害の場合にも紙面作成を担うことになっています。

「メディアワン号」ナンバープレートも1番

おわりに

 近代史について研究するうえで、当時の新聞を史料の一部として当たるのですが、新聞そのものを対象として紹介されるのはあまりないので興味深いものでした。新聞の誕生の背景から、時代による役割の変化などたいへん参考になりました。
 ところで、甲府市内の甲斐善光寺には鎌倉殿こと源頼朝の最古の木像があります。2023年にこちらで展示が決定しています。

その頃は大河「鎌倉殿」は終わっている

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?